アルテアの魔女 サンプル - コミティア部活動|ヒロイン☆ふぇすた

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HEROINS 参加ヒロイン&対象作品紹介

(七月の樹懶「アルテアの魔女」より)

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 序章 燃える街と血の雨と

 見渡す限り一面の紅だった。
 地面が燃えている。いや、地面に累々と転がった死体が炎に包まれて、そう見えているのだ。
「おかあさん」
 その中に立ち尽くして母を呼ぶ。応えは返らない。
 ついさっきまで一緒にいた母。いつも通り手を繋いで午後の買い物に出たのだ。しかし大通りにさしかかった途端、街で一番高い楼閣にある警鐘が鼓膜を破りそうな音量で響き渡った。直後、太陽が顔を隠して夜中のように暗くなり、崩壊が訪れたのである。
 激しい風に煽られて、植物も建物の屋根も人も一瞬で吹き飛んだ。そこに火の玉がいくつもいくつも降り注いで、街を緋色の海へと変えた。
 炎に追い立てられ逃げ惑う人の波を走る間に、握り締めていたはずの手は離れて独りきりになっていた。
「おかあさん、おかあさん!」
 必死に母を呼び、まろびそうになりながら駆ける。
 家に帰ろう。その考えが脳内に浮かんだ。そうだ、母も家に戻っているかもしれない。父も帰宅して、二人で自分の帰りを待っているかもしれない。
 焦る気持ちは足をもつれされ、つんのめって派手に倒れ込んだ。衝撃でしばらく突っ伏したままだったが、膝小僧に走る痛みに目をやれば、盛大にすりむけて血がにじんでいた。
 ぐすぐす泣きながら両手をついて起き上がり、ぺろりと血をなめる。こんな傷、家に帰れば、母が消毒薬を塗って手当てしてくれるだろう。
『泣かないの。まったく、このあわてんぼうさん』
 そう苦笑して、自分と同じ若草色の瞳を優しく細めるだろう。
 脚を叱咤して立ち上がり、よろよろと家への道をたどる。だが、たどり着いた先に期待した光景は無かった。あったはずの家は崩れ去り、追い打ちとばかりの炎に包まれている。
 愕然と棒立ちになれば、今更思い出したように煙と熱が喉を刺激する。ひりひりした感覚に思い切りむせこんだ時、頭上にふっと影が差して、天空を見上げた。
 空飛ぶ山。そう見えたのは錯覚だった。闇よりなお黒い巨大な獣が、六対の翼を広げて悠然と空を舞っている。まるでそれがこの世界の支配者であるかのように。
 凝視したまま身がすくみあがる。がくがく笑う膝を抑える事ができない。目を逸らしたいのに、身体はまぶたを閉じろという指令を聞いてはくれない。
 雨が降り始めた。優しい小雨などではなく、ぼたぼたとこぼれ落ちる厳しさを持った雨だ。そのあまりにもねっとりした感触にぞわりと身震いして、のろのろ手を伸ばし、正体を確かめる。
 掌にべっとりとついた赤が、炎に照らされてより紅く照らし出された。
 血。血だ。血の雨が降っている。
 何故、の考えがぐるぐる脳内を巡る。真実を知るのが恐い。だが身体は反抗的にも再び空を仰いだ。
 黒い巨体を上へとたどる。生物として頭部があるべき場所を見つめた時、瞳はあらざるべき光景を映し出して見開かれた。
 ぞろりと牙の生えた口が、何かをくわえている。その「何か」が見覚えのある誰かだと認識した途端、怖気は吐き気となって腹の底からせり上がって来た。
 丸くうずくまって胃の中の物を吐き出す。焼けた喉がきしみ、言葉にならない声が悲鳴となってほとばしる。
 悪い夢なら目覚めて欲しい。そう願っても血の雨は降り続ける。それは永遠にやむ事が無いように思われた。

 第1章 セァクの祖神祭

   1

 長く降り続けた雪がやみ、今までよりわずかばかり暖かい陽光が降り注ぐ。
 セァク皇国首都レンハストは、フェルム大陸の北方に築かれた古都である。かつて大陸全土を席捲していた帝国の末裔と言われる皇家が治めるその都市は、万年雪深いケリューン山を背にした最奥部の皇城を起点として、城下町が扇状に広がっている。城に向かって一本芯を挿すように通された大通りから細かい道が縦横無尽に張り巡らされ、貴族の住む上層から一般市民の暮らす下層までを繋いでいた。
 その一の道ライ・ジュは、皇国を興した始祖の名を冠している。そのライ・ジュを、黒い軽鎧に身を包んだ兵士達の駆る騎馬兵団が堂々と行進した。掲げる旗は、朱染めの生地に、打ち合わされた二振りの黒い片刃剣。セァクの兵士なら必ず携える双刀である。
 根深い雪を路傍にかき分けて作られた道には多くの民が詰めかけ、悠然と進む騎馬兵を敬意に満ちた眼差しで見つめている。騎馬隊に続く鼓笛隊から、どおん、どん、と、大太鼓の音があがるのを合図に、優雅な曲が奏でられ始めると、人々の興奮は更に高まった。
 鼓笛隊の後からやって来るは、色とりどりの衣装に身を包んだ舞い手達。古の時代『ヒノモト』と呼ばれた東国の民が着ていた衣装を元にしたという、身体の前で身頃を合わせ腰帯で留める服をまとっている。男は逞しい四肢を振るって荒々しく、女は指先から爪先までしなやかに伸ばして艶やかに、セァク伝統の舞を披露した。
 そこに、どん、どん、どん、と警鐘のごとき太鼓が三拍響く。平和だった曲調が突然緊迫感を帯びた音へと変転するのをきっかけとして、舞い手が薄布を頭上にかざして方々へと走り出す。彼らを駆逐するように場に現れたのは、伝説に記される鬼のごとき面をかぶって黒い衣装に身を包んだ、異形の獣の姿をした者達だった。
 このフェルム大陸に跋扈するその災厄はいずこからか訪れ、人を貪り食らって、時に街ひとつを一晩で壊滅に追いやる。人々は奴らを破壊の獣『破獣(カイダ)』と呼び恐れた。
 破獣役の者達は時に舞い手を追い回し、時に沿道の民を威嚇して子供を泣かせたりもする。しかし、彼らの跳梁を許さない存在が後から現れた。
 赤地に金糸銀糸で蝶の刺繍が施された掛け布を垂らした山車に乗り、しゃらん、と涼やかな音を響かせて、真打が姿を現した。
 年の頃は十六、七。一点の染みも無い白い肌。髪は黄昏時のような赤銀。太めな眉の下の丸い瞳は若草を思わせる翠。衣装は掛け布と同じく赤を基調にした布地に金銀の蝶が舞う刺繍が施されている。蝶は彼女の身分を示す証だ。
 鼻筋はすっと通っていて、きりりと引き結んだ唇はしかし愛らしくも見える。若者特有の危うい幼さを帯びた顔とは裏腹に、ぴんと背筋を伸ばして立つ姿は隙が無い。首元、手首や足首に渡る銀の輪や、髪をひとつにまとめた蒼の髪紐についた金の鈴が、風に揺られて濁り無い音を立てた。
 少女の登場を告げる太鼓が一際大きく鳴ると、沿道の人々の歓声がますます大きくなる。少女は冷たい風に髪をなびかせながら一輪の花のようにすらりと一歩を踏み出すと、迫り来る黒の破獣達を視界に収めて翠の瞳を細めた。
 胸元に光る物に手を触れる。首から下がる細い鎖には、血より紅い赤、炎より朱い赤を宿した、親指の先大の石がつけられていた。世界中の赤という赤を凝縮したような完全なる球体の石に唇をつけると、石がほんのり淡く輝いたように見える。
「セァクの民を不安に陥れる者に、始祖ライ・ジュより伝わりし秘術『アルテア』を与えましょう」
 その唇が、謡うように言葉を紡ぎ出す。
『炎の羽根よ、舞い散りて敵を屠れ』
 次の瞬間、言の葉に応えるように、少女の掲げた手から光が舞い上がった。それは虹色の蝶の姿を取ったかと思うと、群れをなして踊り散る。
 そして、向かってくる黒い獣と虹色の蝶が接触した時、それは起こった。
 蝶が次々と燃え上がったのだ。蝶は赤い尾を引いて獣に降り注ぐと、触れた箇所から激しい炎を吹き上げた。それは一瞬の事で、破獣を演じる人間を本当に燃やしたりはしない。しかし、破獣を恐れさせるには充分な威力を持っているという証に、破獣役の者達は奇声をあげながらくるくる回って四方八方へと逃げ去ってゆく。
 破獣を駆逐する。それがこの祖神祭の目的であり、春の初めを告げる厄落としの役割を担っている。虹色の蝶を受けて成敗される破獣を演じるのは罰ではなく、むしろ神の力を最も近くで身に受ける名誉と目されていた。
「アルテア! アルテア!」
「エン・レイ様!」
「巫女様!」
 鼓笛隊の奏でる曲が明るく転調し、歓喜の声が人々から投げかけられる。エン・レイと呼ばれた少女を讃える彼らは誰もが、褐色の肌に尖った耳介を有している。それがセァクの民が帝国の末裔である証だと言われている特徴だ。
 エン・レイは山車の上から笑顔で彼らに手を振り返していたのだが、その山車が急停止して、かくんとのめりかけた。
「おい貴様! エン・レイ様の御前であると知っての無礼か!」
「わかっております、わかっております。ですがどうかお許しください!」
 山車を護衛していた騎馬兵の怒りを帯びた声に混じり、女性の涙声が聞こえた。エン・レイは山車を降りて道へと足を下ろす。途端、「巫女様!」と悲鳴じみた声と共にがばりとすがりつかれた。
 まだ年若い女であった。エン・レイより二つ三つばかり年上なくらいだろう。美しいはずの顔が涙でぐしゃぐしゃに濡れている。
「ああ巫女様、どうかこの子にお慈悲を! もう五日も高熱が下がらないのです。このままではこの子は、この子は……!」
 その後は嗚咽になって言葉にならなかった。見れば女性はその腕に赤子を抱いている。褐色の肌でもわかるほどに顔を赤くし、ぜいぜいと苦しそうな呼吸をしている。体力が落ちているのは目にも明らかだった。
「巫女様は高貴なお方。貴様一人の相手なぞしておられぬのだ!」
 兵が苛立たしげに女性を引きはがそうと腕をつかむ。しかしその手を横から遮ったのは、他ならぬエン・レイ本人であった。
 衣服の裾が汚れるのもいとわずに膝をつき、女性と目線を合わせる。
「大丈夫です」
 巫女はふわりと微笑むと、赤い石を唇に押し当ててから、その手を赤子の熱い頬に当てる。
『この者の生命力に支援を。回復せよ』
 濁りの一切無い言葉が発せられると同時、温かい光が白い蝶と化して赤子に注がれる。その光が消えると、それまで彼岸を見ていたに違いない赤子の呼吸が穏やかなものに変わり、すうすうと寝息を立て始めた。頬の赤みもすっかり引いている。
「もう大丈夫ですよ」
 優しく声をかける。母親ははじめ、信じられないとばかりに目を見開いて我が子を見下ろしていたが、やがて絶望の涙を感激のそれに変えてエン・レイを見つめると、勢いよく頭を下げた。
「ああ……巫女様、ありがとうございます! ありが……!」
 喜びのあまり続きが言葉にならない女性の肩を軽く叩いて、エン・レイは立ち上がった。
「さすがは巫女様!」
「なんとお優しい方!」
 拍手が沸き起こり、エン・レイを褒め称える声が辺りを包む。最初に女性を制した兵はむずがゆそうな顔をしていたが、ゆっくりと女性のもとに近づくと肩に手を置き、
「良かったな。だが今後こういう無謀はするなよ」
 と優しく声をかける。女性はまだ涙を流していたが、何度もしっかりとうなずくのだった。
 それを見たエン・レイはほっと息をつくと、山車に戻る。山車は一層の歓声の中を再び進み出した。
 今年の祖神祭も上々の出来で終わりそうだ。大役を果たしたエン・レイは自然と笑顔になって、セァク皇城までの道程を、人々に手を振り返して進んだ。

   2

 エン・レイに七歳より前の記憶は無い。
 思い出の始まりは白い雪が舞う冬の日。皇都の城門前でぼろぼろになって飢えと寒さで動けずにいたのを、先代の皇王が拾ってくれたところからだ。
 皇王は身寄りも記憶も無い少女を湯に浸からせて汚れを取ると、花柄の美しい衣を着せて、温かい粥を与えてくれた。そして腹一杯になった少女が礼を失している事に気づいて恐縮しながらひたすら頭を下げると、大きな手で少女の黄昏色の髪を撫でてくれたのだ。
 皇王の事はよく覚えていない。それどころか、命の恩人なのに、どんな顔だったか、背はどれくらいだったか、声は高かったか低かったか、髪や瞳は何色だったか、眉は太かったか細かったか。いつどうやって亡くなったのかさえ、何ひとつ覚えていない。
 だがとにかく皇王は、名前すら忘れてしまった寄る辺無き少女に、セァクでは高貴とされるヒノモトの言葉で「炎と冷気」を表すエン・レイという名を与え、皇族の一員に列してくれた。
 それにより、エン・レイはセァクの姫となり、弟を一人得たのである。
「氷と火」の名を持つ弟、ヒョウ・カを。

「姉上!」
 皇城の大理石の廊下を抜けて謁見の間に入ると、声変わりしたばかりの少年の快活な一声がエン・レイを出迎えた。居並ぶ重臣達が見守る中、毛足の長い絨毯を踏みしめ進み出て、玉座のある階(きざはし)の前で膝を折る。
「ただいま戻りました、陛下」
「そんな堅苦しい挨拶をしないでください、姉上。僕らはきょうだいなのですから」
 エン・レイとは対照的に真冬の氷原のような色の髪を持つ皇王ヒョウ・カは、赤紫の瞳に喜びの星をたたえて満面の笑みを見せた。
「今年も姉上が無事にお役目を果たして、何よりです」
 嬉しさのあまり今にも玉座から腰を浮かせそうな落ち着きの無さは、十四歳という若さを思わせる。しかし弟の素直な感情を受け取って胸がじんわり温まる自分がいる事も、エン・レイは知っている。
「お役目お疲れさまでした、エン・レイ様」
 投げかけられた声に視線を転じる。ヒョウ・カ王の傍ら、最も傍近くに直立している、影のような男だった。金刺繍を施した黒地のローブをまとって、フードですっぽりと顔を覆い隠しており、どれくらいの年齢なのか、そもそもどんな顔をしているのか、うかがい知る事ができない。それが彼の印象を一層薄くしているのである。
「あなたこそ、いつも陛下をお守りしてくださり、感謝します。ソティラス」
 エン・レイが謝辞を述べると、ソティラスと呼ばれた男はフードからわずかにのぞく口元をふっとゆるめ、深々と頭を下げた。
「祖神祭の成就に、セァクの民も喜んでおります。皇王ヒョウ・カ様の栄光とアルテアの巫女エン・レイ様の御名はますます世に響く事でしょう」
 ソティラスの言葉を合図にしたように、両脇の家臣達から拍手が湧いた。
「姉上」
 満足げにそれを見渡していたヒョウ・カがとうとうたまらずに玉座から腰を上げ、両手を広げた。
「こう息の詰まる謁見は無しにいたしましょう。祖神祭の成功を祝って、今夜は宴です」

 三弦琴と横笛がセァクに永く続く曲を奏で、それに乗って、鮮やかな衣をまとった舞い手達が艶やかな舞を披露する。卓についてそれを眺めながら晩餐に興じるのが、皇族の祖神祭の締めくくりである。
 高く、低く、力強く響き渡る楽曲は耳に心地良く届き、舞い手の体さばきは優雅で、ヒョウ・カ皇王の隣に座したエン・レイは我知らず微笑んだ。毎年これを見ると、ああ、春が来るのだな、と実感する。
 宴に参加した皇族や重臣、賓客の前には、腕自慢の猟師が山へ入って狩った熊肉をじっくり焼いて、醤油と山椒で少しだけ辛めに味付けした主菜を中心に、塩で漬け込み柚子の甘酸っぱさを添えた、雪の中でも育つ菜。屋外でかちかちに干した豆腐を湯で戻し甘く煮込んだものと、ほくほくした小芋の汁物、そして豆や麦、黒米など幾種類もの雑穀を混ぜ込んだ米飯。最後には鮮やかな色を加えて花の形に整えた、見た目も楽しめる羊羹。得られる食べ物が制限されている大陸北方のセァクでは、これが贅を尽くした食事である。
 皇族や貴族でも、特に冬はそうそう毎日贅沢な食事を摂れる訳ではないので、この宴に招かれる事は栄誉である。めいめいがセァク伝統の食事を堪能しながら、しかし誰もの目が、この席に招かれた異質な客にちらちらと視線を送っていた。
 上座の皇王からほど近い位置で食後の緑茶をすすっているのは、金の装飾が施された白鎧に身を包んだ兵を数名従えている、セァクとは異なる衣をまとった、ひょろ長い手足の男だった。
 胸には幾つもの勲章が実績を誇示するように輝いている。歳は恐らく四十路近くだろうか。口髭をたくわえぎょろりとした獣のような目をして、隣席のセァク家臣と時折何事か言葉を交わしている。
 演奏が終わり、場に拍手が満ちる。楽団と舞い手達が優雅に腰を折って退場すると、その獣のような男が、用意されていた布で口を拭って席を立ち、ヒョウ・カとエン・レイの前にやって来て、ごく自然にひざまずいた。
「贅を尽くした食事と、心のこもった演舞、堪能させていただきました。誠に素晴らしく、感銘を受けております。イシャナからお招きいただいて、光栄の至り」
 胸に手を当て、男は高らかにのたまう。
「ダーレン少将」ヒョウ・カ皇王が静かに男の名を呼んだ。「楽しんでくださって何よりです」
「僭越ながら、エン・レイ姫のアルテアも沿道から拝見しておりました。姫君の秘術と優しきお心、いたく感動いたしました」
「ありがとうございます」
 エン・レイも皇王の姉として、しゃんと背を伸ばし、姫に相応しくふんわりとした笑みを見せる。ダーレンはゆるく口元を持ち上げると、更に低頭し、言を継いだ。
「このような可憐な姫君であるならば、我が国王の正妃としても申し分無く、いえ、イシャナがお迎えする事は恐縮で、実に僥倖」
 しん、と一瞬その場が静まり返った。幾人かの重臣がひそひそさざめき合うが、当のエン・レイは、何を言われているのかわからなくて呆けてしまう。隣のヒョウ・カは、他国の使者という事で覚悟していたのか、わずかに表情を硬くした。
「エン・レイ姫様」
 目の前の男が続ける。
「セァクとイシャナが休戦してから十三年。両国の友好を今後も継続してゆく為に、婚姻関係を交わして絆を強化すべき、との話が、貴国と我が国で持ち上がっております」
 流れるように告げられる宣誓に、何を言われているのか理解しかねた。しかし。
「我らが国の王は適齢期を過ぎてもいまだ正妃を娶っておられません。そしてセァクには姫様、あなた様がいらっしゃる」
 そこまで言われて初めて、エン・レイは自分の身にどういう運命が降りかかったかを理解した。
「エン・レイ様。イシャナ王は、あなた様を正妃にお望みです」

   3

 セァク皇国とイシャナ王国。フェルム大陸にふたつしか存在しない国が戦を始めたのは、三百年の時を遡ると言われている。
 数百年の栄華を誇る大帝国であったセァクは、属領のひとつに過ぎなかったイシャナが一軍を結成し反旗を翻す事で、斜陽の時を迎えた。イシャナは肉食獣が獲物を食らうような勢いで周辺の小国を取り込み、帝国の戦力すら引きずり込んで削り、当時の帝都へ迫った。
 時の皇帝は擁する兵力を総動員してイシャナを迎え討った。しかし奮戦虚しく敗北を喫し、その首はイシャナ王の剣によって地に落ちた。
 イシャナ王は皇族の血に連なる者を片端から捕らえると、民の前で公開処刑した。大陸の勢力図は反転し、遂にイシャナが大陸の覇者となったのである。
 しかし唯一生き残ったセァク皇家の姫が一人いた。それが現皇国の始祖ライ・ジュである。ライ・ジュは数少ない兵に守られながら大陸を北上し、一面白銀の大地をセァクの新たな故郷となした。そして次第に、各地に散っていた褐色の肌持つ帝国民がライ・ジュ皇女を慕って集い、セァクは再興した。
 しかしそれを許さなかったのが、大陸の統治者となったイシャナであった。
『大陸を不当に支配し暗黒時代に陥れた邪の一族』
 セァクをそう断じ、邪悪を討つ聖戦と称して幾度も北の地へ攻め入ったのである。
 当初、戦力の差に、セァクは三月で滅びるだろうと誰もが目した。ところが世間の予想に反してセァクは健闘を見せる。雪に囲まれた新生セァクは、自然が味方をしたのである。
 草原しか駆けた事の無いイシャナの騎馬隊は、一年の多くを雪に覆われた慣れぬ地ではまともに機能しない。足を取られてもたついたところへ、木々の陰からセァク弓兵の渾身の矢が飛ぶ。地の利を活かして雪の中を走り回るセァク兵にイシャナ兵は翻弄され、撤退を余儀無くされた。
 以後、セァクとイシャナは版図を少しずつ広げたり狭めたりしながら、大陸の主導権を巡って、交戦と停戦を繰り返した。
 最前の休戦に持ち込まれたのは十三年前。両国国境付近のアイドゥールという街で、時のイシャナ国王とセァク皇王が直接対話に臨んだ時をきっかけにする。
 何があったのか正確に語れる者はいない。街は突然炎に包まれて滅び、その場にいた人間は王を含めてことごとく死亡して、証言できる者が一人もいない為、というのが通説だ。
 とにかくアイドゥールは炎の中に全てを消し去り、指導者を同時に失い疲弊したセァクとイシャナの間にひとまずの休戦という微妙な均衡を残した。

 湯につかり今日の疲れを落として糊の利いた衣に腕を通す。皇城の自室で一人、湯あがりの茶を飲んでいると、体験した全てが夢であったかのような気分になる。しかし実際には、この目と耳が見聞きしたあらゆる事象は現実で、それは今手にしている湯呑みのように確かなものである。喉を通ってしまえば熱さを忘れる茶ではない。
 前皇王に拾ってもらってセァクの姫になった。それがどういう意味を持つかを考えていなかったのかと問われると、決して素直には首肯できない自分がいる。
 先代は慈善や同情だけでエン・レイを救ったのではないのだ。いつか政治の道具として使い道があると見越していたのかもしれない。そしてそれは、エン・レイが有するこの『力』に由来していたのだろう。
 胸元の石を取り出して見る。『言の葉の石』と人々が呼ぶこの赤の塊を唇に当て、濁りの一切無い美しき言辞を紡ぐ事で、人知を超えた力を発動できる『アルテア』。それこそがエン・レイが大陸で唯一人保有する能力であり、彼女が巫女姫として崇められる最大の理由であった。
「姫様」
 細い指先で石をもてあそびながら物思いに耽っていると、侍女が扉を開け、恭しく頭を下げる。
「皇王陛下がおいででございます」
「お通ししてください」
 エン・レイが応えると侍女は深くうなずき引き下がる。
「姉上」
 彼女と入れ替わるようにヒョウ・カが入って来た。
「ごめんなさい、姉上。これから嫁ぐ女性のお部屋を訪ねるなど、王でも無礼という事は重々承知しています」
 まだ何も言われていないのに、既に叱られたかのように身をすぼめて、ヒョウ・カはおずおずとこちらの様子をうかがう。エン・レイは苦笑しながら湯呑みをテーブルに置き立ち上がると、弟の元へ歩み寄った。
「まったく。皇王ともあろうお方がそんな態度を他人に見せてはいけませんよ」
「でも」
 子供のように唇を尖らせるヒョウ・カは小さくて、本当に幼く見える。平均的な女性の身長を持っているエン・レイが少し見下ろすほどなのだから、同年齢の少年としても小柄なのだろう。
 だがいつかこの少年も青年になって背が伸びる。姉である自分を追い越すだろう。それをこの目で見届ける日が、こんな形で失われるとは思っていなかった。そう考えると喉につかえるものがある。エン・レイは感情の塊をぐっと呑み込んで、両腕を弟の細い肩に回すと、しっかりと抱き締めた。
「姉上」
 たちまちヒョウ・カが涙声になり、抱擁が返って来る。
「姉上。姉上がどこに行っても、姉上は僕の姉上です。ずっと大好きです。それは変わりません」
「ヒョウ・カ」
 ともすればつられて落涙しそうな思いを抑え込んで、エン・レイは大事に言の葉を紡いだ。
「私もあなたを愛しています。私の大切なヒョウ・カ。あなたの幸せの為に、私はイシャナへまいりましょう」
 姉弟は互いに、その温もりを永遠の思い出として覚えていようと、しっかりと抱き合った。

 暦の上では春だが、一年の多くを雪に覆われたセァクに実際の季節感はあまり無い。
 そんな白い春のある日、四頭立ての立派な箱馬車が皇城の門前に止まり、周囲で黒鎧の兵達がしっかりと守りを固める中、赤い衣をまとったエン・レイがゆっくりと城から出て来た。
「それでは、姫様」
 皇王であるヒョウ・カが直接見送りに来る事は無い。代わりに側近のソティラスが、相変わらず深々とかぶったローブの下で唇を引き結び、ゆっくりと低頭した。
「イシャナまでの旅のご無事を」
「陛下をよろしくお願いいたします、ソティラス」
 エン・レイも礼を返すと、「は」と低い返事が耳に届いた。
 金の鈴をしゃなりと鳴らしながら、皇城を見上げる。十年を暮らした場所。エン・レイの人生の思い出の全てがここに詰まっている。
 知らず知らずの内に潤みかけた目を、まばたきでごまかすと、彼女は凛と前を向き、しっかりとした足取りで馬車に乗り込んだ。
 王姉を乗せた馬車の一団は、レンハストの民が見守る中、ライ・ジュの通りを抜けて静かに出立する。祖神祭の盛り上がりとは裏腹に、まるで葬式のような沈黙に包まれた出発だった。
 民の誰もが思っていた。これは祝福すべき対等な婚姻ではない。敬愛する姫を人質としてイシャナという墓場に送る儀式なのだと。

本編へつづく

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