七都 サンプル - コミティア部活動|ヒロイン☆ふぇすた

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HEROINS 参加ヒロイン&対象作品紹介

(灯「七都」一巻より)

七都
七都
七都

お試し読み

一巻より:

 聖羅は心を落ち着けるべく、深呼吸をした。その時。
 かすかに、しゃくりあげる音と、ちいさな声がした。
「……おかあさん……」
 布団のなかに潜っているのか、その声はくぐもってちいさかったけれど。それでも聖羅はそれを聞き逃しはしなかった。
 耳を澄まさなければ聞こえないほどちいさく、押し殺した泣き声だった。
 自分には母を慕う気持ちがわからない。七都が恋うような、やさしい母を聖羅は持たなかったから。けれど、たとえばひとり、髪をほどきながら遠くにいる人を思うそのときの自分と同じように。やさしかったひとの、やさしい記憶が、七都を捕らえて離さないのだろうか。
 泣き声がやまない。聖羅は逃げ出したくなった。おかあさん、と時折混じる声に、かなしみが滲んでいて、聖羅の胸が掴まれたようにぎゅっと痛んだ。
 いたたまれなくなり、もうこの部屋から出て行こうとベッドから起きあがる。けれどここから逃げ出そうという意志に反して、何故か聖羅は二段ベッドのはしごを登っていた。
 顔を枕に埋めて布団にくるまり、目を閉じてまるまって七都は泣いていた。聖羅はそっと、七都の髪をやさしく撫でた。
「……聖羅?」
 涙で濡れた大きな目で、七都が驚いたように聖羅を見上げていた。
 その瞳を見た聖羅の胸に、罪悪感がこみ上げる。なんて勝手なことだろう。彼女から幸福を奪ったのは誰だ。けれど同時に、母性にも似た愛情が波のように押し寄せて胸を浸す。七都を愛おしく思い、まもりたいと願う衝動が。それに抗えなかった。
「一緒に眠ってあげるわ、七都」
 やさしい声で聖羅が囁き、布団を捲って七都のとなりに潜り込むと、両手で七都を抱きしめた。
 とんだ欺瞞だ。そう嘲笑う声が心の中になくはない。けれど今はそれを聞かずにおこうと思った。
「七都」
 もう一度名を呼び、抱きしめた腕に力を込めた。
「ずっとそばにいる」
 それは、聖羅が七都とかわした、はじめての約束。
「聖羅……」
 七都が、聖羅にしがみついて泣き出した。
「わたしがそばにいるわ、七都」
 やさしくささやき、そっとそっと、その頭を撫でる。
 この胸の痛みは、罪の意識などではあり得ない。そう、心の中で繰り返しながら。

 夜半過ぎ。聖羅はひとりで部屋にいた。
 その日夕方に一度戻ってきた七都は、いろいろ用事があってレジスタンスに泊まるから今日は帰らない、と言って出て行った。一瞬、群青のところにでも行くのかと思ったが、どうやらそういうことでもないようだった。そうであったとしても全然かまわないのだが。
 雨戸を填めようと窓から半身を乗り出して、聖羅は外を眺めた。じきに嵐が来る。夜空は不気味に赤く、風が強く吹き始めていた。
 聖羅はかがんで、自分の眠るベッドの下に手を入れる。触れる手応え。つめたい、鉄の感触。つかんで引きずり出すと、それはごとりと床にぶつかって重い音を立てた。
 黒く光る重たい銃身を、持ち上げて手に収める。それはまるで自分の手の一部のように馴染んだ。
 聖羅は平穏の終焉を予感していた。
「聖羅、ちょっといいかしら」
 言いながら百合子が部屋に入ってきた。突然のことだったので、聖羅はその手にあった銃を隠す間がなかった。百合子の表情が、驚きに染まる。
「……聖羅、どうして、そんなものを……。ずっと持っていたの、何故そんなものを持っているの、第七都の女が持つものじゃないわ……」
 蝋燭のあかりがゆらぐのと同時に、聖羅と百合子の影もゆれる。
 潮時だ、と。聖羅は感じた。
「──何故わたしがこんなものを持っているのか。聞きたいの百合子?」
 聖羅はかすかに笑んだ。
「聖羅……」
「聞きたい、それとも聞くのが怖い? 第七都の女が持つものじゃない、その通りだわ」
 聖羅は銃を持ったまま立ち上がり、百合子が背にしていた部屋の扉を閉めた。二人きりで部屋に閉じこめられた形になり、百合子の瞳がかすかな恐怖にゆらぐ。
 聖羅が怖い、そう百合子は思ったのだ。
 窓から差し込む月の明かりに照らされた聖羅の、透き通る氷のようにさえざえと美しい横顔。その聖羅の視線が、百合子を捕らえて微笑する。
 口を開きかけた聖羅を見て、百合子はかぼそい声で叫んだ。
「待って、聞きたくな……」
 けれど聖羅はその制止を聞かなかった。聖羅の赤い唇から、言葉が紡がれる。

二巻より:

 七都が道の向こうに消えていくのを見送って、しばらく聖羅は辺りの風景を眺めていた。強く弱く、節をつけたように唸る風に、時折鎮守護の持った鈴の音が混じる。その音を聞いているだけで、飽きることがなかった。
 唐突に、老婆が聖羅に言った。
「おまえはまた、たいそうな業を負ったものだね」
 聖羅が振り返る。
「おまえがしてきたことの報いをおまえはいつか受けることになる。碌な死に方はできない、その手で流した分だけの血を流しておまえも死ぬだろう」
 鎮守護の不吉な予言に、聖羅がくすりと笑んだ。
「そうと聞いて少し安心したわ」
 突風が吹き、鎮守護の手に持った鈴が、リーン、と鳴った。
「でなければおかしいと、わたしも思うもの。想像はつくわ、さぞ酷い死に様でしょう」
 平然と、しかもまったく本気でそう答える聖羅を見て、老婆はくつくつと声を漏らした。
「そうかい、予想通りか。けれどね、おまえが愛したもの、その愛も報われるよ」
 その老婆の言葉には、聖羅は驚いたような顔を向けた。
「そんなことはありえないわ」
 そう言う聖羅を、老婆が興味深げに眺めて首を振った。
「おまえの納得いかぬのはそちらか。おもしろいね……。けれどこれは仕方がない。真に愛したものすべてにおまえは愛されるよ」
 老婆のその予言に、何か聖羅が反論しようとしたときに、石の門の向こうに、ちいさく七都の姿が見えた。
「罪を雪ぎたいと願うなら、愛を供せ。おまえにできることはそれくらいだ」
「……別に今更、わたしはそんなことを願ったりはしない」
「自分では気付けぬか。過去におまえが言った通り、罪と罰の相関など存在せぬよ。それでもその身の裡に、おまえ自身が積み上げた罪の意識が澱んでいる」
「……」
「それでもおまえは悪くない選択をした。あれを選ぶとは」
 老婆はこちらへ向かい歩いてくる七都を指で指し示す。聖羅は思わずまばたきをして、鎮守護の顔を見た。
「おまえの採り得た道の中で、最上のものだった」
 言葉をなくして佇む聖羅をその場に残し、鎮守護が、霊場への小道からの段差を登ろうとする七都をねぎらうように、手をさしのべた。

「それがおまえの夢か」
 男が口の端をかすかに上げた。
「俺と来い」
 七都が目を見開いた。一瞬、赤将軍に言われたことばのその意味が理解できなかった。けれど胸が早鐘を打ち、息が詰まる。苦しい。無理矢理に息を吐くと、力が弛んだ顎は未だ戦慄きを止めず、奥歯がぶつかり合い吐息までもが震えた。
「レジスタンスは潰える。俺たちの手によって。おまえにここで出来ることなど何もない。戦場に出て命を懸けてまでくだらない夢など見るな。そのようなものは叶わない」
 赤将軍のその言葉を耳にした瞬間。怖れに畏縮していたはずの七都の胸の中で、激しく火花が散った。
「おまえは何を望む。欲しいだけのものを与えてやる。第七都での見窄らしい夢など捨てろ、俺と来い!」
 胸を焦がすような憤りに、優花のことも、自分の置かれた状況も、すべてのことを一瞬忘れた。思わず男を屹と睨みつけた七都の目が、至近で七都を見下ろす赤将軍の視線を捕らえる。
「何を……!」
 顔のすぐそばに突き立てられた刀が頬につめたく触れた。けれど不思議なほどに、恐ろしいという感情は消え去って、ただ血が沸き立つような思いがあった。熱い。それは怒りだった。いつのまにか震えは止まっていた。
「偉そうに、何でも持っているつもりで、けれど夢を見たこともないのね、可哀想に!」
「何……」
 或いは放言とさえ取れるような七都の言いように、煌の面にかすかな怒りのようなものが走った。
「あたしの夢が叶わない? 何もかも知ったつもりになって、人を見下すのが当然って、そんな顔をしてるくせに何ひとつ知らないの。可哀想なくらいに馬鹿ね。あたしは知ってるわ、本気で望めば、どんなことも叶うってことを!」
 思わず煌が言葉に詰まった。
「あたしの夢は叶う。あなたにわかることなんて何もないわ。一緒になんて行くはずがない、手を離して!」
 七都は力一杯押さえ込まれていた腕を引いた。手首をつかんでいた煌の手を振り払い身を捩り跳ね起きる。そして剣を構えた。
 赤将軍が口の端を歪めて笑んだ。
「……それではおまえのその剣で、確かめてみるがいい」
 煌が地面に突き立てた刀を引き抜き、振り上げた。その時だった。
「七都!」
 聞き覚えのある声がその場に割り込んだ。
「群青……」
 七都を背にかばう位置に群青が立ちふさがり、七都は思わず安堵の息をついていた。緊張が解け、気が弛むのを感じた。
 彼の背の後ろ。それは比類ない安心感を七都にもたらすものだった。
 そんな七都の表情の変化を見て、煌がその顔に剣呑なものを浮かべた。
 次の瞬間、群青の剣と赤将軍の刀とが、激しい音を立ててぶつかり合う。

 自分が触れたいと願ったときに、いつでも触れられる距離に置いておきたい。七都がそれを肯んじ得なくともかまわない。拒絶をするならすればいい、それをねじ伏せてでもその身を心を奪ってやる。
 煌が七都を抱き上げ踵を返そうとした、そのとき。
 沈みゆく太陽を背に、熱を巻き上げる風に髪を揺らして立っていたのは、あまりにも因縁のありすぎる相手だった。
 煌が口の端をわずかにあげた。
「――久しぶりだな」
 赤い夕陽が世界を染め上げる。
「その子を返して」
 淡々とした口調だけを聞けば、或いはその言葉が静穏に響いたかも知れない、けれど煌を捕らえる視線は、他の者が見れば恐ろしさに背筋が凍るようなものだった。
「珍しいな」
 常人では耐えきれぬであろう、その聖羅の迫力に圧倒されることもなく、煌がその表情に笑みのようなものを刻む。
「おまえでもそれほどに、なにかに執着をすることがあるのか」
 まるで聖羅を挑発するかのように、煌が、抱き上げていた七都の体を胸元に引き寄せる。
「――返しなさい」
 聖羅の声がわずかに低くなる。それは激しい嵐の前兆を思わせた。目に見えぬ火花が散る。
「そんなふうにおまえの感情が揺れて動くのを、俺ははじめて見た。それほどにこの女が大切か」
 血を分けた姉弟でありながら。心を通わせる会話を交わした覚えなど殆どない。けれど互いにわかりすぎるほどにわかるのだ。相手がどれほどに、七都を欲しているのかが。
「俺たちはいつも同じものを求める」
 その煌の言葉を、聖羅がはねつける。
「おまえと同じものに執着したことなどないわ」
 煌が、ふんと鼻で笑った。
「心からどうでもいいと思う相手を、不必要なまでに切り刻み、嬲り殺す必要があったのか?」
 聖羅は、自分を溺愛していた母を殺した。時が経った今となっては、ああせずにいられなかった聖羅の気持ちが、多少は理解できなくもない。ゆえにあの事件の直後のように、聖羅を激しく憎む気持ちはなかったが、それとは別に、既に因縁じみた嫌な絆を感じるのだ。
 いつまでたっても同じものを軸として対立する。
 母を。紅雅を。そして七都を。
 腕に抱えていた七都を、そっと地面に下ろして、煌が刀を抜く。
「俺はこの女が欲しい。なによりもだ。おまえもそうなのか」
 聖羅は答えなかった。代わりに大振りの刀を持っていた右手を振り上げる。

三巻より:

 七都がどれほど悲しむだろうかと考えると、聖羅はひどく沈んだ気持ちになった。遠くない未来に、群青がその命を終えるというそのことよりも、その時に七都が泣くだろうと、そちらのほうがより気になってしまう自分は、随分と冷たい人間だと聖羅は思った。
 それは今に始まったことではない、知ってはいたが、それでもやはり、自分の血は氷でできているのではないかと、そんな認識を新たにする。
 ただ七都のことだけが、他の何もかもと違って特別で。あの子のために自分の体には、わずかなりとも暖かさが通っているのだ。
 それでも群青の、穏やかで少し切なげな、あの顔を思い出せば胸が痛みはするのだった。あきらめ、とは違う。ただもう逃れようのない運命を受け入れるしかない、そんな顔。きっと彼はずっと思っていたのだろう、遠くない終わりの日の到来、そのことを。
 もしも仮に自分が男で、彼の立場だったらどうするだろうと、聖羅は想像してみた。
 自分が七都の恋人で、余命幾ばくもないとすれば、どこか世界の果てにでも七都を連れて行って、最期の日々を過ごしたいと願う、そんな気がした。
 誰にも邪魔されない場所で、ふたりきり、七都が帰りたいと言っても帰さずに。もうすぐ自分は死ぬのだから、それまでの間だけでもここにいろと、強引に、その憐憫の情を乞うて。
「……なんてこと」
 自由に妄想した結果が、あまりに何処までも勝手に過ぎるので、さすがに自分でも驚き呆れた。どうしようもない。馬鹿馬鹿しさに頭痛すらしてくる。聖羅は思わず指で額を押さえて首を振った。
 結局自分が七都をまもりたいと願うのは自分のためだ。七都を悲しませたくないと思うのも。何もかも、すべてが自分のためだ。
 あの子がきずつくのが、あの子が悲しむ顔を見るのが、自分にとってこの上ない苦痛なのだった。
 そして何より、七都を失うことが恐ろしい、それだけだ。

 聖羅は戦場に紅雅の姿を見つけた。紅雅、と、思わずその名を、縋るが如くに呼びそうになり。けれど次の瞬間息を飲んだ。彼と剣を交えるその相手を見て。
「七都……?」
 茫然と、剣を交えるふたりを見つめる聖羅の、胸に去来したのは、長い時を共に過ごした、紅雅との記憶だった。
 それは光。
 はじめて見た光だった。生まれ落ちたその瞬間に、向けられる筈だった愛情のすべてを奪われた、その自分にはじめて降り注いだ光。かつて全霊を傾けて、何物にも代え難く、大切に思ったもの。
 耳のうちに蘇るのは、彼が自分の名を呼ぶその声。かつて自分は大切に思うものをなにひとつとして持っていなかった。『聖羅』と、彼が呼ぶから、この名を愛しく思った。そして彼に呼ばれる自分は、多少なりともこの世界に存在する価値があるのだと思えた。
 幼い日の記憶は、つめたくて暗い、それこそ思い出す価値など一片も見いだせないようなものであったけれど、それでも彼がいたから、捨て去ることをしなかった。母に刻まれた深い傷はいつだって、紅雅が暖かく癒してくれた。
 今でも思い出す。見たこともないような激しさで、彼が蓉子を床に引き倒し怒鳴りつけたあの日のこと。これ以上聖羅をきずつけることは絶対にゆるさない、と。
 そして走馬燈のように胸を走るのが、七都と過ごしたその日々のことではなくて、紅雅との思い出であったことが、聖羅にその選択をさせたのだった。
 自らの手で破壊する、その想いがどちらであるのかを。聖羅ははっきりと悟ったのだ。
 聖羅はゆらりと立ち上がった。
 体温はもう感じない。自らを温める血も通わない。身を苛んでいた痛みも遠ざかった。
 心の中は、凛然とすきとおる氷のように、透明だった。
 視界を歪めるどんな不純なものも混じり得ない。
 厚い雲の垂れ籠めた空から降りしきる、雨は急激にその雨足を速くして。灰色に染め上げられた世界が色を失う。
 聖羅は刀を投げ捨てて、ロング・ドーンをホルダーから抜いた。
 身に負った傷、そして熱と重なる疲労に集中力も切れかけていた。両手でロング・ドーンを構えたが、視界は霞み、銃を持つ手は震えて、照準が定まらない。右手の指輪がかちりと銃身にぶつかり、小さな音を立てる。それでも気力を振り絞り、聖羅は、狙いを定めひきがねを引いた。

 自分の手で殺した標的を、無言でリディリークが見ていた。氷のように冷たい、地にはいずる虫螻を眺めるような目で、見ている、つもりでいた。
 そのリディリークの顔を見て、涙など流れていないのに、唐突にヴァレリが言った。
「何で泣いてるんだ、おまえは」
 忌々しげにそうつぶやくヴァレリを、驚いてリディリークは見上げた。
「泣いてなんか」
 けれどリディリークが、そう答えた瞬間。その目から、自分の意志とは無関係に、堰を切ったように涙があふれ出した。
「……え?」
 リディリークが、自分の流したその涙に驚いて声をあげる。
 盛大にためいきをついて、ヴァレリはリディリークの頭を乱暴にかかえると、自分の胸元にぶつけるように抱き寄せた。顔が見えないように。
「子供のくせに、何も感じないふりをするからだ、馬鹿」
「……違う、僕は別に」
 黒いスーツに顔を押しつけられたまま、リディリークはいいわけをするようにそう言った。
「違わないだろう」
「ほんとうに違う、別に僕は、この仕事を厭って泣いてるわけじゃない、ただ」
「ただ、何だ」
「……ただ、彼にも、愛するものがあったんだろうと。彼を愛するひとがきっと、いるんだろうと、思った、だけ、で……」
 リディリークは床に目を落とした。足元を流れる夥しい血。スティレットが標的の心臓を貫いた、その瞬間の、ずぶりと肉を貫く感触が手に蘇る。
 人を殺すことを恐れて、ここから逃げ出したいとは思わない。言い訳のしようもなく、これは自分が望んで足を踏み入れた世界。自分がここにいるのは、自分でそう選んだからだ。
「忘れるな。おまえは金で魂を売ったんだ」
 ヴァレリが言う。
「わかってるよ」
「いやわかってない、全然。売り払った魂で何かを感じたりなんかするな。心など殺せ。じゃなければ、――おまえが死ぬ」
 ヴァレリのその言葉を聞き、リディリークの中でなにかが決壊した。
「……もういい!」
 気づけば、幼い子供のように泣きじゃくりながらリディリークは叫んでいた。
「心が死んで、体が生き残るのか、それはほんとうに僕なのか!?」
 顔色ひとつ変えずに、今まで自分は組織の標的を、もっとも効果的な方法で、まるでもののように殺してきた。淡々と、とヴァレリが評したポーカーフェイスで。他者の命を奪うことに何も感じていない、そのつもりで。
 ただ自分は、ニーナを生かすために、他の誰かの生命を奪い続けている。
「おまえが死んだら、ニーナの命もない、違うか?」

四巻より:

 一枚の上着にふたりでくるまって見上げた空は、月もなく真っ暗で、降るような星がちらちらと瞬いていた。
 七都が寝ころんだまま、空に向かい手をのばす。
「好きな星があったらあたしが、取ってあげるわ」
 そう言われた群青は、目の前にいる、七都が眩しすぎてもう星なんてひとつも見えないと思っていた。
 七都を見つめて、群青は目を細めた。
「……群青?」
 間近で見つめ合う。
「太陽だと、思った。眩しくて、ちゃんと見ていられない程だった」
 群青が、袖に入れていない方の手でそっと七都の髪に触れた。その手を七都がぎゅっと握る。
「七都」
 群青はその名を呼んだ。口にするだけでしあわせになれる、そんな、まじないのような言葉。
 終わらせるのが惜しいような、素晴らしい人生でもないと思っていた。望まぬことばかりが身に降りかかる、そんな運命だったと。
 けれど、最後に、七都に会えた。
 それまでの苦難はすべて、この幸福の前置きだったのだと、そう思えた。
「好きだよ、七都」
 口からこぼれてしまったそれは、言わずに置こうと思っていた言葉だった。
 けれどきっと大丈夫だと、群青は思った。こんな言葉ひとつで、彼女を永遠に縛れたりはしない。
「あたしもよ、大好き、群青」
 今ここにいる七都の、翼を掴み空へ羽ばたくことを邪魔しているのは自分かも知れないと考えていた、けれどそれは彼女を見くびっていたと、群青は思った。
 彼女の意志は強く、まっすぐで、きっと七都は自分の人生の選択の何もかもを、自分で為してゆくのだろう。
 望む未来へと繋がる道を歩いてゆけるように。この言葉を枷にすることなく、愛された記憶だけを胸に。そばにいられなくなったなら、忘れてくれればいい。未来にその記憶が薄れて消えゆくもので構わない。
 そしていつか本当にしあわせになってくれたなら、それだけで。
 冬の空は晴れ渡って、まるで星くずが落ちてくるようだった。この子の元を去ったら、あの星のひとつになって見守れたらいい。
 七都がそっと、群青の手のひらに、自分の手のひらを合わせて、そして笑った。

「おまえがいるからだ」
 七都が思わず絶句する。
「戦場に、おまえがいるからだ」
 茫然としたまま、七都が首を振った。
「それなら今あたしを殺して」
 何度も何度も首を振りながら。ぼろぼろとこぼれる涙が七都の頬を濡らす。
「今すぐあたしを殺して、もうこんなことは終わりにして……!」
 煌に腕を掴まれたまま、七都の膝ががくりと砕けた。
「嫌だ」
 ずるずるとその場に座り込む七都を見下ろして。煌が言う。
「おまえを世界から失って穿たれる空白を耐える馬鹿馬鹿しさ。そんなものはいらない」
 七都は何も答えられず、ただ涙に濡れた大きな瞳で煌を見上げていた。煌が、七都の腕を引きずりあげるようにして掴む。
「俺と来い」
 ふたたび誘いを掛けると、七都は激しく首を振った。
「行かない。絶対に行かない……!」
 そう叫び、泣きじゃくる七都の、恋人を失ってきずついている様は、ひどく愛おしいものに煌の目にはうつった。その傷を癒すのは自分であるべきだと煌は決めていた。もう二度と、他の男などその視界に入れさせるものか。
「あの男はもういない。おまえのことは俺がまもってやる」
 自分を拒絶して暴れる七都の腕を掴み、引きずるが如く強引に、自分の胸に抱き寄せる。
「俺を見ていたいだろう。俺を世界から失いたくないだろう。違うのか」
「違う……!」
 七都は激しく首を振って否定する。
「群青、群青っ、いやあっ……!」
 煌が、暴れる七都を抱き上げて馬に乗ろうとした、そのときだった。
 黒い疾風の、刃が。空を切り煌を襲う。
 煌でさえ一瞬血の気が引いた、それ程の殺気を纏った一撃が。
「七都を離しなさい……!」
 聖羅だった。
 凄まじい勢いに載せた一閃。七都を抱えていた手を離して、煌が辛うじてその刃から逃れた。それでもほんのわずか切っ先が掠めただけの、頬から鮮血が飛び散る。
「ちっ……」
 煌が舌打ちをし、太刀を抜く。が、聖羅の力任せの激しい攻撃が間髪入れず襲い来る。さすがの煌も、それを全力で受け止めざるを得なかった。そのあまりの勢いに圧されて、漸く手に入れたと思った、七都のことを見るどころではない。その聖羅の様子に、思わず煌は目の前の人物が本当に、自分の知る聖羅本人であるのかと疑った。

五巻より:

「……聖羅が、好きなんだ」
「だったらどうして……!」
 七都の知っている尚釉なら、聖羅をそのように無為に危険に晒すような選択を為す筈がなかった。けれど今目の前にいる尚釉はどうだろう。誰なのだろうとすら思う。聖羅が記憶を失い、まるで別人のようになってしまったのと同じに、尚釉もまた、変容してしまったのだろうか。
「聖羅に会いたい、会いたくてたまらない。おまえが言ったんだ、俺は、聖羅に恋をしているんだって。……愛じゃないんだ、きっと」
 淡々と尚釉はつぶやいた。
「俺は勝手すぎる。きっと聖羅のことを、愛してなんて、いないんだ……」
「尚釉」
 いつの間にか七都は泣いていた。苦しくてたまらなくて。胸が痛かった。
「頼む、七都」
 唐突に、正気に返ったかのように、尚釉がじっと七都の目を見た。
「聖羅から俺を遠ざけてくれ。もう二度と会わせないでくれ、どこか遠くに」
 尚釉が七都の腕を掴んだ。
「このままじゃきっと俺は聖羅に害を為す、だけど聖羅がそこにいる限り、離れられないんだ、頼むから七都、聖羅をたすけてくれ、俺から聖羅をまもってくれ」
 こんな尚釉の姿を見るのははじめてで。七都は思わず絶句していた。やさしくて度量の広い、何事にも動じない、そんな大人の男性なのだと思っていた。どこか危うげな聖羅を、彼はいつも些細なことには動じない、そんな大きな愛情で包み込んでいるのだと。
 けれど今、絶望の淵でもがく尚釉の姿を見て涙が止まらない。あまりにもせつなくて。
「できないわ、尚釉……」
 七都は泣きながら首を振った。

「嘘じゃない。俺が殺した」
 暫く何も言えずに、七都はただ幾度か、まばたきを繰り返した。そしてかすかに首を振る。
「どうして」
 七都が呆然とした面持ちで問い、そして煌に近づきその腕を掴もうとした。
「近寄るな!」
 煌がその七都の手を振り払い刀を薙いだ。その刃が、七都の頬を浅く切り裂く。
「あ……っ……」
 七都はちいさく息をのみ、よろけるように二、三歩あとずさると、血の滲む頬をおさえて立ち尽くした。
 驚きに縁取られたその黒い瞳は、硬質の宝石のようなかがやきを見せていた先とはうって変わって、激しい痛みをうつしていた。
 七都の見開かれたままの瞳から、涙があふれて頬を伝う。そんな七都の表情を間近で見て、煌は自分の心の中にわずかに残っていた理性の、箍が外れて飛んだ、その音を聞いたような気がした。胸のうちに湧き上がる衝動を、抑えきれない。
 その心の奥にあったのは、破壊衝動としか言いようのない欲望だった。
 七都を泣かせたくなる。きずつけて、追いつめて絶望させて、泣かせて、そして抱きしめたい。揺れうごく感情のすべてを、自分が支配したい。
 そんな愚かしい欲が渦を巻く。止められない。
「どうしてと、おまえが問うのか?」
 七都の頬に走る傷に指を這わせて、煌は酷薄に追い打ちをかける。
「おまえと俺が出会ったからだ」
 七都は悲鳴にも似た声をあげた。足ががくりと砕けて、その場に頽れそうになる。その片腕を引きずるが如くに煌が掴んだ。
「おまえに会わなければ、俺はおまえの姉を……月華だけを愛しんだ。おまえを惠暁宮に攫うことなどしなければ、月華は」
 腕を掴まれたまま、大きな瞳で自分を見上げる七都は、血が滲むほどに唇を噛みしめていた。そんな七都を見下ろす、煌の心に歪んだ歓喜が沸きあがる。煌は、七都の頤に手をかけ、涙に濡れた瞳を見下ろした。
 煌はその震える唇に、自分の唇を重ねた。今まで激しい拒絶にあってきたが、今日はそれすらもなく。目を閉じて涙を流す七都に深くくちづけたあと、煌は崩れそうになる七都のその体を乱暴に突き離す。七都がちいさく声をあげて、乾いた地面に転がった。
「……俺に近寄るな、俺に近づけば、おまえを殺すかも知れない」

「琉へ行こう、聖羅」
「……え?」
 脈絡もなくそう言われ、聖羅は驚いて顔を上げた。
「もうこんな武器を持つ必要がない場所に。一緒に行こう、俺と」
 尚釉が、聖羅の手の中のロング・ドーンを奪う。
「きっと生きてゆける。おまえがもっと幸せになれる。忘れたいことは忘れればいい。すべての柵から解き放たれていいんだ。おまえのことも誰も知らない、琉に行けば、今までと違う人生がはじまる、だから」
 真摯な瞳。じっと聖羅を見つめてくるその目の奥には、聖羅が見たことがないようなものがある気がした。それはたとえば、決して得られぬと確信していた安寧、そんなまぼろしのようなものが。
「……琉、に」
 もう、彼の言う通りに、琉へでも行ってしまえばいいのかも知れない。争いのない土地。自分とは一生、縁のない場所だと思っていた。そんなところへゆき、静かに穏やかに暮らしてゆく。
 七都のことはあきらめて、ここを去るのが、いちばんいいことなのかも知れない。誰にとっても。
「……わたしにも、新しく、生きてゆく場所をくれる?」
 聖羅がそう、尚釉を見上げて言うと。尚釉が一瞬、信じられないと言うような顔をして。それから、破顔した。
「いくらでも。おまえが俺のそばにいてほしいんだ、聖羅……!」
 湧き上がる歓喜に、何事ももう、言葉にならないといった様子で、尚釉は聖羅を抱きしめた。これほどに喜んでいる彼を見るのははじめてだと思った。強く抱きしめられた腕の中で、聖羅は目を閉じる。
 これでよかったのだ。目の前にいなければ、きっと七都のことをあきらめられる。
 そのとき、今までここで聞いたことのないようなざわめきが、視力が弱った所為で敏感になった聖羅の耳に触れた。
 聖羅は耳を澄まし、尚釉の腕の中から身を起こす。
「聖羅?」
 怪訝そうに尚釉が名を呼ぶ。それと同時に、尚釉の耳にも聞こえてきたのは、階段を上がってくる、聞き慣れた足音。
「聖羅」
 そこに顔を見せた七都の表情は不安げで。
 とても、嫌な予感がした。
「今、下に、第一都からの使者っていう人が来ていて……聖羅に会わせろって、言ってるの」
「……え?」
 胸騒ぎ。早まる鼓動。けれどその、すべてを支配するような振動とは逆に、頭は異常につめたく醒めてゆく、そんな感覚があった。

 言葉はなかった。けれど、そこで何をすべきなのか、煌は知っていた。おそらくは七都も。
 血が命じるのだ。今、ここで、決着をつけよ、と。
 これが最後の戦いだと。
 見慣れた飾り布が巻かれた剣の柄を握り、七都が床を蹴った。煌が刀を抜く。
 細い剣を振りかざし、自分に迫る七都の姿は、光を纏うように美しかった。剣を交えている最中だというのに、その姿に目を奪われる。
 世の美貌を極めたような造形を持った女なら、幾人も知っていた。けれどこの美しさはどうだろう。
 宝石が砕けてこぼれるような。光がまとわりついているかのような。涙の残る濡れた睫毛が、星の雫を抱いているようだった。
 なのにその剣の軌跡は鋭く、あまりに正確だった。まるで氷を切るかのように鋭利な刃影が眼前に残像を残す。はじめて剣を交えたあのとき、目の前にいる小娘が、自分の脅威となるとは考えもしなかったのに。
 煌の刀が七都の残影を薙ぐ。あまりにも素早くて、その動きを捉えられない。
 次の瞬間背後から迫る七都の剣を、煌は振り返りざまに長い太刀で払った。けれど七都は背後へとまるで鳥のように飛びすさり、そして木の床を蹴り跳躍する。
 それでも、如何に七都の剣が精密極まりなく鋭い軌跡を描こうとも、正規軍の片翼を担いその腕ひとつを頼りに戦場を駆けた、煌もそう簡単に七都に翻弄されはしなかった。
 息もつけぬほどに激しく切り結ぶ、その時は何故か失いがたい奇跡のようにも思える時間だった。互いに互いの姿しか目に映さずに。今、世界には目に映る相手しか存在しない。それはたとえようもなく濃密な時。激しく愛を交わすような。
 煌も七都も気づいていた。互いの生命の所在を欲して奪い、与え合う、それは深く強い恋心とあまりに類似していると。否、同じものであるのだと。
 隙を突かれたわけでも、不意を打たれたわけでもなかった。ひらりと舞う風の如く、七都が煌の正面に迫る。七都の振り翳す剣を、煌が太刀で受けた。が、そのまま押し切るように、煌の握った刀を、七都は手にした細身の剣で、もぎ取るように撥ね飛ばす。抗えないほどの力で。
 細いこの腕のどこにそれだけの力があるのかと驚愕した、次の瞬間、武器を持たぬ煌に七都が当て身を食わせ、煌の体は床へと引き倒されていた。背が硬い床に打ち当たる。しゅっと空を裂くような音と共に、見慣れた細い剣の切っ先が煌の首に迫り、喉元に振り下ろされる。

本編へつづく

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