女子剣雪月花 サンプル - コミティア部活動|ヒロイン☆ふぇすた

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HEROINS 参加ヒロイン&対象作品紹介

(AGJスタジオ「女子剣雪月花」より)

辻月旦
辻月旦
辻月旦

お試し読み

女子剣雪月花

   ***

「ことここに至っては、やることはひとつ」
 十七歳の誕生日も近い少女は、女子更衣室のロッカーの前で、汗が滲むうなじを掻き上げるように、腰までの長い黒髪をポニーテイルにまとめる。年相応ではない黒い下着のブラとショーツという姿で、仁王立ちに姿勢を正すとフンとばかりに鼻を鳴らす。
「自分の真処を、相手の真処に打ち込むのみ……ね」
 もう一人の少女が、同じような黒い下着姿で腕を組み、首をぶるんとふるうとショートボブの髪を打ち鳴らす。同じくフンと鼻を鳴らすと、汗ばんだ下肢に愛用のスパッツをはき始める。
 ポニーテイルの少女の名前は、辻月旦。すらりとした笹葉を思わせる。
 ショートボブの少女の名前は、戸田勢花。重心の据わった樹木を思わせる。
 勢花がそうしたように月旦もスパッツを穿き、これもまた大人びたキャミソールに腕を通す。これもまた黒い。
 薄手のキャミソールから透ける肌が、やや上気している。
「緊張している? と聞く方が野暮よね」
 聞く月旦。
 そこで真一文字に口を引き締めた勢花が受け、そこでお互いがお互いを伺うように、見つめ合う。
 月旦は勢花の肩や腕に刻まれた、隠せぬ赤黒い痣に目を落とす。何度も打ち据えられて付けられたものだ。
 勢花も月旦の肩や腕に刻まれた、隠せぬ赤黒い痣に目を落とす。何度も打ち据えられて付けられたものだ。
 お互いが、お互いに。
 防具の上からとはいえ、容赦なく、打ち据えた痕。
「大丈夫よ、月ちゃん。わたし、絶対に揺れないから」
 微笑む勢花。
 そのまま、やや震えぎみの月旦の肩を抱き寄せ、そのまま彼女の頭をかき抱く。彼女よりやや背が高い月旦は、中腰の状態で勢花の胸の谷間に顔をうずめる形になる。月旦は嫌がりもせず、勢花の汗の香りと優しい温かさ、そして規則正しくも力強い鼓動に目を閉じる。
「ね? 落ち着いてるでしょう」
「……うん」
 月旦は勢花の背中に手を回し、しっかりと抱きしめる。
 落ち着くまで十秒と少し。
「うん」
 月旦はようやく顔を上げる。勢花も微笑み、彼女も照れくさそうに笑う。
「花ちゃん、わたしも揺れたりしない。もう、大丈夫」
「うん」
 ふたりはロッカーからセーラー服を取り出し、身に付ける。
 この学校の生徒がみな身に着ける制服である。袖を通し、脇のジッパーを上げ、襟を正し、スカーフを整える。
 スカートを穿き、ややきつめに締める。
 ここまでだと、これから下校する少女であろうかと思うところだが、少し様子が違う。
 お互い、八尺あまりの長さの黒帯を腰に巻き始める。臍で合わせ、腰に回し、もう一度回し、へその下で長さを整えてパシンと締める。
 両端に四文字ずつ刺繍された朱色の漢詩が揺れる。
 沈魚落雁――魚も沈み、鳥も落ちる。
 閉月羞花――月も隠れ、花も羞じらう。
 生命力溢れる美女を讃える詩である。
「よし、いこう! 花ちゃん!」
「うん、やるよ! 月ちゃん!」
 ふたりはロッカーに立てかけてある刀に手を掛ける。
 刃を上に、腰に佩く。鍔はやや高く、鳩尾の前である。
 セーラー服姿に漢詩の居合い帯、刀を腰に、足下は裸足である。
 異様な風体に自信を漲らせ、ふたりは廊下へと出る。
 目指すは格技棟最奥、剣道部の道場『修道館』である。
 待ち構える相手との対決を前に、踏み出す一歩は力強いものであった。
 そして彼女は思い出す。
 それぞれの想いでここを目指したときのことを。

第一話「ドタ子とタン子」

   *勢花の事情*

「え? あたし、クビですか」
 戸田勢花が一年間続けた剣道部から退部を迫られたのは、学年末試験期間に入る最後の練習のあとだった。
「進歩もない、見込みがない生徒が二年生になったら、後輩に示しが付かないでしょう?」
 更衣室に勢花を残し、着替え終わった彼女にそう言うのは、剣道部の毬谷円佳である。円佳は入り口近くに腕を組み、仁王立ちである。見据える目は厳しく、切れ長の目が剣呑に細められている。
「でもあたし、剣道が好きだし、練習だって――」
「剣を振るなら、部じゃなくても良いでしょう? 今年、試合に出られなかった一年はあなただけ。別にいじめてるわけじゃないのよ。分かるわよね」
「…………」
 食い下がる勢花の言葉を遮るように、円佳は一歩詰め寄りながら言う。ベンチをふたつほど挟んでいるが、その威圧感に勢花は一歩後じさり、下を向いて口を噤んでしまった。
「向陽高校」
 円佳は、彼女たちの通う高校の名前を呟く。
 その呟きに込められた意味は、大きい。それ故に、勢花には彼女の言う意味がありありと伝わっている。
 都立向陽女子高等学校と言えば、格技を含む運動系部活動の中でも、公立の高校でありながら近年名を上げている強豪である。とりわけ剣道部に於いては学区の中でも古豪として知られ、多くの女剣士を輩出した名門であった。
 名門ゆえに、部員も多い。
 小さい頃からの剣士もいれば、中学高校と続けて剣道を嗜む者も多い。
 町道場の一人娘である毬谷円佳は前者であるが、クビを言い渡された戸田勢花は高校入学を機に剣道を始めた初心者であった。
「その剣道部に身を置くという意味は、分かるわよね」
 円佳は続ける。
「同じ一年生同士、今までは同じ立場だから言わなかったけれど、三年生も卒業し、四月からは私は副部長。これから東郷先輩と部を引っ張っていかなければならないの。だから、ね」
 諭すような円佳の言葉に、勢花は唇を噛んだ。
「東郷先輩……東郷部長には私から言っておくわ」
「あのっ」
 顔を上げる勢花。唇には血が滲み、それ以上に涙がこぼれ落ちている。
「あのっ……あ、あたし……」
「学校見学のときに来た子がいたでしょう? 五人とも、私の道場の子なの」
「…………」
 言葉尻の自信は、勢花よりも腕が勝る新入生のことを思ってだろうか。
「せめて、みっともない動きができていればね」
「そんな」
「二年に上がったら、防具を一式揃えなければならないのは知っているわよね。あなたに防具を身に着ける資格はあるのかしら。ねえ、ドタ子」
 一年生は、たとえ経験者であっても、部活動での防具着用は認められなかった。徹底的に基礎と素振りが義務であった。晴れて二年へと進級した暁に、やっと防具を着けての練習ができるようになるのだ。
 その瞬間を、勢花は楽しみにしてきたのだ。
 しかし、彼女は基礎体力こそ人並み以上に付いたのだが、持ち前の鈍臭さからか、体捌きの方はさっぱりであった。そこを指摘されているのだ。
「部活動は義務ではないわ。それに、剣道部を辞めても、決して恥ではないわ」
「恥……」
「足手まといは、いらないの。きつい言い方になってしまうけれど、無駄に高いお金を出してまで続けることもないでしょう? 今しかないの、私たちは」
「と、東郷先輩は……」
 絞り出すような呟きには、次期部長の東郷が、同じように自分を落伍者扱いにしているのかを問うものだったが、円佳はやや違う返しを口にする。
「先輩は次が最後。夏の全日本女子が最後なのよ」
 勢花は無言でうつむく。
「あなたに構ってる時間はないの。お願いドタ子、私たちの邪魔をしないで」
 両腕を垂らし、言い含めるように見据える。
「ロッカーも足りなくなるわ。片付けておいて」
 円佳はそう言うと、口を真一文字に結び、踵を返す。
「じゃあね。お疲れ様」
 うつむく勢花には、彼女が去り、閉められる扉の音しか聞こえなかった。
 堪えきれず零れる涙は、止められなかった。
 堪えられるはずはなかった。
 全て、自分が悪いのは分かっていた。
「うぅ……」
 嗚咽がついに漏れる。
 誰もいなくなったせいだろうか、堪えていた心の堰が突き崩されたようだった。
 苦しかった思い出、楽しかった思い出、その全てが涙を通して溢れていく。
 堪えられるはずがなかった。
 洟をすすり、ひとしきり泣くと、窓の外はもう真っ暗であった。大寒を過ぎてこっち、しかしまだ日は短い。
「剣道、続けたかったな」
 ボロボロの顔のまま、勢花は綺麗に畳んだ袴を、道着を、かき抱く。
 顔を埋めながら、洟を啜る。
「ロッカー、綺麗に片付けないとね」
 一年生用の小さいロッカーだった。テーピングや髪留め、傷薬や絆創膏。教本や写真、タオルに着替えと、一年間の思い出が詰まっていた。もともと、試験前で部活動もなくなるので、大きめのスポーツバッグを持ってきていたのが幸いした。それら全てを詰め込み、綺麗に水拭きし、一礼して閉める。立て掛けられている自分の竹刀を手にすると、ぎゅっと握りしめ、かき抱く。
 剣道部での最後の仕事を終え、荷物を背負い、電気を消して去って行く。
 そして彼女は二度と、この部に帰ることは無かった。

 目覚ましの音を聞いた瞬間、いつものように飛び起きると、勢花は携帯のアラームを慣れた手つきで解除する。
「そっかぁ……」
 そのまま、毎朝五時に設定していたアラームを、躊躇った挙げ句に解除した。
「もう早起きする必要なんてないんだったよね」
 そのまま力が抜けたように、溜息と共に枕へ顔を埋める。
 外から差し込む明かりは、街灯のそれで、まだ真っ暗だ。
 そんななか、携帯の液晶から漏れる光がその頭を照らし出している。
 時間がやや経ち、照明の輝度が一段階落ちると、彼女の頭はもぞりと蠢く。
「眠れない」
 画面がオフに切り替わる前に、二つ折りの携帯を折りたたみ、むくりと起き上がる。
 クビになった翌日の朝。
 結局、夜中中ぐずっていたせいで、寝たのは明け方。その寝不足にも関わらず、肉体はいつものリズムで目が覚める。
 自主朝練習の時間に。
 毎朝、五時起き。自宅から街道沿いに五キロ離れた『五本欅』まで往復マラソン。帰宅してシャワー、朝食、自転車で登校が、いつもの彼女のリズムであった。
 蛍光灯の紐を引き明かりを付ける。
 ベッドサイドの鏡に、泣きはらしたあとの野暮ったい目をした乱れボブカットがげっそりとした顔が映っている。勢花であった。
「酷い顔」
 両手で頬を挟み込むように打ち、気合いを入れる。ムニムニともみほぐし血行に活を入れると、「良し!」と気合いを入れ直して、しかし「はぁ~……」と肩を落とす。
 走るか。
 走らないか。
 その、二択だった。
「どうする? 勢花」
 昨日のことを思い出す。
 来春からの副部長、毬谷円佳はこう言った。「剣を振るなら、部じゃなくとも良いだろう」と。部で剣を振ることを疎ましく思われても、朝のマラソンまで走るのを躊躇ってしまったら、なにかが終わるように感じていた。
 いつもより、二分遅く、初春の寒い室内にピンクのパジャマ姿で立ち上がる。
「走る」
 強い再決意の表れか、パジャマを脱ぎ捨て、下着姿で深呼吸をする。
 気が引き締まる。
 板張りの道場は、もっと寒かったのを思い出す。
 厚手の靴下を穿き、少し汗臭いままのジャージを身に付け、明かりを落として部屋を出る。廊下はしんと冷たく、薄暗い。両親も弟も、まだ寝ている様子だった。
 そこもいつもと変わらない。
 階段を降りて、リビングを横目に玄関に降りる。
「おはよう、セイちゃん」
 気遣わしげに声を掛けてきたのは、母の京子であった。
「おはよう、お母さん。……起こしちゃった?」
「起きちゃったのよ。安普請だからね」
 四十を手前に控えた、まだ若い母であった。彼女が昨夜、目に見えて落ち込んでいた勢花が食事もろくに摂らずに寝たのを気に止めていたのだ。眠りも浅かったのだろう。
「走ってくるね」
「そう。……気を付けてね」
「……うん」
 スニーカーを履きながら答える勢花。ずいぶん履き古したそれを見ると、進級と共に買い換えようかと考えていたことを思い出す。
「行ってきます」
 カギを開け、ドアの向こうへと走り往く娘の背中を追うように、京子は心配そうにカーディガンを羽織り直す。
 いつもより、五分遅い日課。
 そんな勢花の五分遅れの日課が、彼女の運命を大きく変えようとは、彼女も、彼女の母も、知るよしもなかった。

 いつものマラソンコースだが、景色が違うな……と思った。
 空気そのものはいつもの味。走って五分もすれば、この陽気でも汗が滲む。吸って吐くリズムが熱を帯びてくると、頭もしっかりと動いてくる。そこで思ったのが、「景色が違う」だった。
 勢花の視界には、いつもは映らない人が映り、車が行き交い、そしていつもの街並みが広がっている。
 なんで走っているのかという問いそのものは考えず、いつもの自分を取り戻すためだけに、いつもの生活リズムに乗ってみようという、彼女なりに考えた結果に過ぎない。
 息も上がりつつあり、いつもの道を、違う見え方のまま、走る。
 赤信号では腿上げの足踏みでドタドタと青を待ち、青になると車に気を付けて走り出す。耳からも、意識しなければ聞こえない雑音が消えていく。いつもの自分だ。
 走ってる間は、考えるまでもなく、自分であることを意識できた。
 公園の時計を見る。毎度見上げる時計は、五分進んでいる。いつもと同じペース。いつもはかなり先で通り過ぎる作業服のおじさんとすれ違うとき、彼が小首を傾げて腕時計を見るのをおかしく感じる余裕が出ると、朝方の悩みの多くも遠くなる気分だった。
 街道を逸れて左に入ると、折り返し地点。
 南に鳥居を構えた神社が見えてくる。
 この階段を上り、境内で息を整えながら、神前に手を合わせてから戻るのがいつもの日課であった。
 ――ここは、今日も同じ景色だ。
 勢花は鳥居を潜りながら、石段を駆け上る。両足に溜まる心地好い疲労は、神社の清廉な空気を吸うごとにピークを迎えつつある。
「着いた~!」
 石段の最終段を蹴るように上りきり、手水舎の前までクールダウンしながら小走り、そして歩き、足を止める。
 深呼吸しながら、体中の筋という筋を伸ばし始める。
 このストレッチは、念入りに十分ほど続けられるのだが、石段のそばで前屈をしているときに、ふと、玉砂利を踏む音が聞こえた気がした。
「あら」
「え?」
 声を掛けられ、勢花は前屈の姿勢のまま、ふと顔を上げる。
 見覚えのある姿だった。
 取り立てて見どころのない地味なセーラー服姿は、彼女も通う向陽高校のものだったからだ。しかも、その制服少女の顔は、勢花も知る同じクラスの――。
「委員長」
「戸田さんじゃないの」
 お互いがお互いを認識した瞬間だった。
「おはよう、戸田さん。あなた近所に住んでたの?」
 小首を傾げて尋ねる『委員長』。
 勢花はポカンとする間に、この美しいロングヘアーをポニーテイルにまとめている、つり目がちの如何にもなお嬢さまの名前を思い出す。
「おはよう委員長。……ええと、あの、朝練?」
「なぜ半疑問系なのかしら」
 名前を思い出しても、口から出てきたのは「委員長」である。勢花はさすがに苦笑混じりに愛想笑いを浮かべた。その笑顔の推移に、委員長は眉根を寄せて訝しむ。
「いつも朝練で、ここまで走ってきてるの。……委員長は近所なの?」
「近所も近所、この神社――の裏が、私の家なの」
「え、ということはここ、いいんちょン家?」
「そう言うことになるわね」
 こくこくと頷く委員長に、勢花は「へ~」と間が抜けた声を出し、ようやっとそこで前屈顔上げの態勢を直し、佇立したまま大きく深呼吸をする。
「しかし、朝練? 体力作りは大事よね。たしか戸田さんは、剣道部だったわよね。これから学校に行ってから、部活の朝練になるのかしら」
「ん、でも……」
 言いよどむ勢花の間を、委員長は違う意味合いで悟った。
「ああ、部活動禁止だったっけ。試験期間中だものね。朝練だけはあるんだったっけ?」
「え、ええ」
 そこで勢花は、いつも来ていた神社がクラスメイトの実家であると知った驚きと相まって、あまり話さないクラス委員長の辻の姿をまじまじと見た。
 綺麗な子だった。
 ポニーテイルにつり目はいかにもお嬢さまだし、肌も白い。着こなしているセーラー服のラインは美しく、腰も細く、腰も張ってる。いかにもな、美人だった。
「あら?」
 そこで気が付く。
「辻さん……それなあに?」
「ん?」
 委員長は、勢花の視線が自分の後ろに注がれているのを知ると、「ああ」と言いながら笑う。それは彼女の肩に担がれた黒く、細長い鞄――というよりケースであった。
「気になる?」
 その表情が、勢花の記憶にある彼女の楚々とした表情とは違う、親しみのあるいたずらっ気満載の表情でビックリした。こんな顔もできるのかと失礼なことを考えながらも、彼女の担ぐそのケースに勢花の興味はそそられたのだ。
「さすが剣道部ね」
 と、思わせぶりな物言いで委員長はソレを肩から下ろし、彼女の前に差し出す。
「はい」
「え?」
「どうぞ、いいわよ」
「…………え?」
 とあっけにとられながらも、勢花はそのケースを受け取った。両手で押し戴くように見ると、どうやら中身はずっしりと重い、細長い何かが入っているらしい。チャックの着いた上の部分を開き取り出すらしいが、その手応えに彼女自身思い至る物があって声を漏らす。
「あ、これって」
「ええ、そうよ。いいわよ、中を見ても」
 一度、「いいの?」というような顔で伺いを立てると、委員長は「どうぞ」と背中を押す。
 ケースを持ち替え、チャックを開く。
「竹刀じゃ……ない」
「竹刀じゃないわね」
 勢花の目には、くろがね色の金属。組み紐が巻き付くソレは、明らかに刀の柄であった。

   *月旦の事情*

「お前、またそんな物を持ちだして」
 朝である。
 辻家の長女である月旦は、仏間から祖父の形見である刀を手にした瞬間、待ち構えたように言う父の言葉に振り返った。
「お父さん、おはようございます」
「おはよう。――じゃない、月旦、ちょっとこっちに来なさい。話がある。……刀は置いておきなさい」
 セーラー服姿。
 登校の準備を整えた彼女は、疲れたような父の言葉に、抱えるように抱きしめていた鞘ごめの刀を、祖父の仏壇の脇にある床の間へと置いた。刀掛けには対となる短めの刀、脇差しも納められている。
 何度目のお小言だろうか、月旦の端正な顔がしかめられる。
「おはよう、お母さん」
「おはよう。ご飯ができているわよ」
「はい」
 父は先に済ませた様子で、読んでいたと思われる朝刊を脇に、愛用の湯飲みでお茶を飲んでいる。月旦が席に着くと、娘の顔をちらりと伺うが、自然に伏せて湯飲みを傾ける。
 それを「話はあとだ」というサインと受け取り、月旦は箸を手に取る。
「いただきます」
「はいどうぞ~」
 母が応えると、脂を沸かせた焼きたての秋刀魚の開きが置かれる。
 味海苔でご飯を巻いて、ひとくち。次いで焼きたての魚から骨を除こうと手を伸ばした矢先、父が口を開く。
「この春から、二年生になるんだ。いつまでもチャンバラごっこの、そのまたマネゴトなんか、もうやめなさい。あれは本当に危ない刃物で、玩具じゃないんだぞ」
 咀嚼中に口を開く粗相に気を取られるこの瞬間を見計らっての、声がけだった。
 月旦は父の言葉の間中、ご飯を飲み込むまで我慢してから口を開く。
「チャンバラごっこではないわ」
「月旦、ここで道場を開いていた義祖父ちゃんのことを忘れろとは言うつもりはない。なにも女の子がチャンバラなんて、な」
「チャンバラじゃないわ」
「……どっちでもいいっ」
 多少いらつき始めた父の物言いに、月旦の目がスっと細められる。
 据わる、というやつだ。
 その視線に、父もマズいことをしたと改める。こうならないようにしたつもりなのだが、どうにも上手く行かないようだった。
「母さんからも何とか言ってあげてくれ」
「あらあら」
 自分のお茶を煎れた母が、席に着く。湯飲みを手にしたまま、じっと娘と夫の顔を見据える。
「お母さんね、月旦の好きにしても良いと思うのよ」
「母さん……」
 味方に裏切られた情けない顔で父はため息をつく。
「だってあの刀は、遺言で月旦に渡したものだし、お祖父ちゃんだってソレを臨んでたはずよ? さすがに辻流を継げとは言ってなかったけど、お祖父ちゃん子だった月旦に、孫馬鹿のお祖父ちゃんだったし。それにあなた、中学に入るまで神社や家族を放っておいて、私たちがどれだけ――」
「母さん、今はそんな話は……」
「そんな? そもそもですね――」
 旗色が悪くなり、父は母からの追求に追われる始末。
 月旦は食事を再開しながら、思いを馳せる。
「とにかくだ」
 話を切り上げんと、父が強めに言って立ち上がる。
「チャンバラごっこは、やめなさい。いいね? 道場はもう畳んでるし、お前は神社の娘なんだから」
 月旦の返事があることを期待した物言いではなかったのは、そそくさと自室に戻っていく姿から伺えた。
「お父さんはね、心配しているのよ? 月旦」
「うん、それは分かってる」
 厳しい顔つきが、一気に垂れる。
「事情があるにしても、女の子が真剣を振り回してるのは、やっぱり心配なのよ、親としては」
「振り回してはいない……わよ?」
「術理のことじゃないの」
 ぴしゃりと言われて月旦の箸が止まるが、母は食べなさいと促す。
「お母さん、お祖父ちゃんからそっちのことはあまり教わらなかったからわからないけど、どこかの道場に通って修めるとか、剣道部に入るとかあると思うのよ」
 母の言葉の端々に、徐々に目が据わり箸の動きも大きくなる。
「ひとりで、お祖父ちゃんの手帳を見ながらなんて、あたしとても心配で」
「駄目」
 ごくりと全てを平らげて、箸を置く。
「駄目なのよ、他の道場じゃ」
 温くなったお茶を飲み、立ち上がる。
「ごちそうさま。……学校に行ってきます」
「……はい」
 それでも、母はにっこりと笑う。
 仏間に向かう娘の後ろ姿を目で送り、困ったように首を傾げる。
「ほんと、頑固なところもお祖父ちゃんそっくりなんだから」

 早々に食事を切り上げた月旦は、仏間に置いた刀のもとに戻ると、溜息混じりで正座をし、祖父の遺影に手を合わせる。
 神社の息子のところに、となりの剣術道場の娘が嫁いできた。それが月旦の両親だ。実のところ、神社の方も亡くなった父の兄、伯父が継ぐはずであったが、その逝去に伴い、会社の景気も悪く出張などを繰り返していた父は転職を期に、実家を継いだ。
 母は、もとよりその当時から門弟もほとんどいない道場だったこともあり、普通のOLをしていたらしい。母が中学生のときに祖母が亡くなったらしく、そのあたりから祖父は全く他人に何かを教えることが嫌になったと聞いたことがある。生活が成り立ってたのが不思議なくらいで、どうやら月旦も知らない謎の遺産があったらしく、ただただ己の研鑽しかしない祖父だったらしい。
 月旦は祖父の遺影に写る、その平々凡々とした、ややふっくらとした顔の好々爺の顔をじっと脳裏に焼き付ける。目を閉じれば、それよりもやや若い、溌剌とした祖父の顔が思い出される。
 江戸弁の残る祖父の、「なっちゃいねえ」という口癖が耳に甦る。
 目を開くと、死ぬ前日に自分と撮った写真から切り抜かれた、祖父の笑顔。遺影の中の祖父は、あのときと同じままだった。
 神職を継ぐ前の父は忙しく家を空けがちで、母も仕事を続けていたせいもあり、月旦は祖父である光太郎に預けられることが多かった。預けるとは言っても、もとは隣同士、簡単な改築で二件は一件となって、同居のようなものだったから、預けられていたという感覚は月旦にはない。
 物心ついた頃から、祖父の亡くなる中学二年まで、べったりの祖父ッ子だったのだ。何をするにも、祖父と一緒で、何を教わるのも、祖父からだった。
 その祖父である光太郎が唯一、月旦に教えなかったのが、辻家に伝わる剣術である、辻流剣術だった。
 彼女は、庭先で刀を――真剣を振るう祖父の姿を思い出す。
 綺麗な動きだった。
 あの動きを見てるだけで楽しかった。
 自分でもやりたいと思い、教えを請うたこともあったが、やんわりと「大きくなってからな」と断られた。
「ふぅ」
 月旦は刀を手に、立ち上がる。
 竹刀や刀の運搬に使う、革製のケースに入れて担ぎ、鞄を手に取る。
 廊下に出ると、玄関に向かう背に、母から声を掛けられる。
「月旦ちゃん」
「お母さん?」
 その手にはお弁当である。彼女から弁当を受け取ると、月旦はありがとうと一言、鞄にしまう。
「お父さん、社務所のほうよ」
 月旦の顔がしかめられる。
 あの物言いのあとに、刀を担いでいるところを見られると、また何か言われるだろう。母の心配は、そこにある様子だった。
「神社の方から行くわ」
「ふふ、そうね」
 社務所の奥からは、神社拝殿のほうまでは見えない。
「道場によってから、学校に行きます」
「はい、行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
 ローファーを履き、玄関を後にする月旦。
 この日、たまたま、いつもの時間に父の目から逃れるために道場までの道を変えた。
 このたまたまが、彼女の運命を大きく変えようとは、彼女も、彼女の母も、知るよしもなかった。

   2

 向陽高校。
 住宅街の外れにあるも、最寄りの地下鉄や私鉄からのアクセスも良く、多くは自転車通学をしている、いわゆる公立の女子校である。
 時節柄、周囲を覆う柵こそ頑丈で高く物々しいが、耐震工事を終えたばかりの校舎は白く眩しいほどであった。
 正門を隔てる門扉はスライドされ、開け放たれたそこには生徒会役員と生活指導の教諭、それに警備員が二名という物々しさである。
「おはようございまーす」
 遠くからも聞こえる生徒会役員たちの挨拶。
「そっか、こんな時間だともう週番活動があるのかぁ」
 結局、朝のマラソンをこなした勢花は、自宅でしこたま朝食を摂ったあと、神社で会ったクラスメイトのことを考えながら普通の登校時間に家を出ることにしたのだった。
 朝練に行かなくても良いという、決して軽くはない疎外感を感じてはいたのだが、朝のあの一件以来、どことなく喉元過ぎた感じがする勢花であった。
 愛用のスニーカーで、大股にのしのしと通学路を進み、そうそうたる出迎えの挨拶に、「おはようございます」と会釈しながら門を潜る。
「おはよう戸田」
 が、その背中にハスキーな声が掛けられる。
 振り向くと、ベリーショートに髪を丸めた、真っ赤なジャージ姿の教師――生活指導教諭の柳である。
「柳先生、おはようございます」
「ん」
 勢花も姿勢を正し、挨拶を改める。
「今日はどうしたんだ? こんな時間に。午後はないが、朝はあるだろう」
「ああ、それはですね……」
 柳は生活指導という睨みを利かせる役割に似合う、柔道部顧問でもあった。剣道部員である――剣道部員であった勢花が、朝練に顔を出さずにこの時間に登校してきたのを不審に思っての声がけだった。
 部活のサボりは許さぬタイプの堅物だが、勢花の真面目さもこの一年、部は違えど見てきた女である。決めつけることなく、小首を傾げて問う。
 下手な言い訳なら許さぬ処だったが、柳の予想を超える返事が返ってくる。
「クビになりました」
 これには、さすがの柳も目を丸くした。
「クビ……?」
 柳の言葉に頷く勢花。
 思い出したのか、さすがに表情が曇る。
「向陽高校剣道部には、相応しくないとのことです。わたし」
「…………」
 スッ……と丸くなった目が細められる。
 組んでいた腕も、だらりと垂らされる。自然体だ。
「顧問の先生の判断か? それに、部長の東郷はなんと言っている」
 部をクビになるという、部をクビにするという仕打ちについて、ことこの向陽高校剣道部という組織においては、有り得ることだと柳は得心した。
「東郷部長……先輩は知っています」
「そうか」
 戸田勢花という生徒の、一年間の頑張りというものを少なからず知る柳は、やるせない表情で肩を落とした。
「柔道部に来るか?」と言いかけたが、柳はそれを飲み込んだ。彼女の部の生徒への手前もあるし、なにより彼女が目指していたものを考えると、おいそれと持ちかけられない話だったのだ。
「朝、少し走ってきたんですが――」
 勢花のその言葉を、柳は未練だとは思わなかった。
「体を動かすのは良いことだ。とくに戸田、お前は運動しなくなった途端に太るタイプだ。気を付けろよ」
「うっ」
 朝ご飯はしっかり二回おかわりしてきたのは覚えている。
「部活動がなくなるなら、そのあたり気を付けることだ」
「は、はい」
「試験はがんばれ」
「は……はい……」
 期末試験初日と言うこともあり、生徒もどこかピリピリしてる様子だ。
「じゃあな、がんばれよ」
 そう言うと、柳は門で睨みを利かせる仕事へと戻る。
 残された勢花は、自分の脇腹をつまみ、「いやいや」と首を振り、下駄箱へと向かう。
 しかし、こうして気持ちを意識的に切り替えるまでもなく、頭に思い浮かぶのはクラス委員の辻のことだ。
 辻月旦、彼女は結局、思い詰めた顔のまま多くを語らず、神社の奥へと姿を消した。勢花はその背中を見送るしかなかった。
「あの刀……なんだったんだろう」
 骨董品? 質屋でもやってるのだろうか。
 今はまだ、勢花はそれが馴染みは薄いが実は身近にあったものであることに気がついてはいない。
 靴を履き替え、上履きで二階へと上がる。
 渡り廊下を過ぎ、左手へ。通い慣れた教室に入る前に、ふと格技棟へと目を落とす。いつもはこのくらいの時間に、朝練の汗を拭いながら、あっちから来るんだと、独りごちる。
 そのまま廊下に誂えられたロッカーから今日のテスト教科である数学と英語、古文の教科書を取り出す。
「数学ッ」
 顔が歪む。
「英語ッ」
 肩が落ちる。
「古文ッ」
 項垂れる。
 全く自信が無かった。
 体を動かすことにはこの一年余り慣れてはいたが、勉強の方はからっきしだった。赤点を免れれば御の字。進級も危うい状況であることは否めない。生活態度や、それでも仕上げてくる一夜漬け・直前詰め込みのおかげとも言える。
「んあああああああああああ」
 情けないため息をつきながら教室に入ると、早くもクラスメイトたちがグループを作って試験前の確認をし合ってるところであった。中には勢花どうよう試験前から項垂れているものも多く、彼女らも彼女らで傷口を舐め合うように教科書片手に試験範囲を舐めるように通読している。
「おぁよー」
 打ちひしがれた勢花の気の抜けた思い挨拶にクラスメイトの数人が応えると、彼女は自分の席にどっかと腰を下ろし天井を仰ぐ。
「あ~」
 やる気が湧く前に無力感に苛まされる。
 とにかく、テスト範囲の通読と、要点のチェックだった。それで赤点は回避する。これしかない。
「……………………」
 そんな天を仰ぐ彼女の横顔をちらりと伺う少女がいた。
「………………?」
 小首を傾げるのは、辻月旦である。
 彼女はあのあと思わせぶりに道場へと引っ込み、一通りの型をこなしたあとに登校したのだ。
 彼女にしてみれば、あの思わせぶりな刀のチラ見せがあれば登校してきた勢花が何かしらの問いかけをしてくるかと思ったのだが、とうの勢花は教科書を机に天井を仰ぎ、情けない顔と声で悶々としてるのみである。
 入学したての頃から他人にあまり興味を抱かなかった月旦だったが、この剣道部員の少女だけは気になっていた。自分から声を掛けることはなかったが、同じ剣を修める者として気にはなっていたのだ。
「やっぱり、勉強は苦手なのかな」
 口にこそ出さなかったが、興味は更にそそられた。
 気が付くと、勢花は机と向き合い物凄い集中力で教科書とノートを睨み付けていた。声を掛けるのは躊躇われる。
「ま、いいか」
 話す機会はまだあるだろう。
 月旦は勢花から意識を戻し、教科書を眺め直す。月旦は別段焦りも見せずに落ち着いた様子だ。彼女は、成績は良いのである。
 そうこうしているうちに予鈴が鳴る。
 ついに、期末テスト初日が始まった。
 勢花は絶望の表情で。
 月旦はしかし、そんな彼女を見て小首をもう一度傾げる。
「面白い子」
 少し声に出して、彼女もテスト準備をするのであった。

「無理」
 三時限のテスト時間を終え、口から魂が抜けんばかりに疲弊した勢花は、机に突っ伏したまま脱力している。
 実に恐ろしいまでの集中力でなんとか数学と英語を斬り抜け、選択問題多めの古文を絶妙な塩梅でこなし、ここに至り、ガス欠を起こしたのだ。
 九時開始、五十分間のテストと十分間の休憩を三コマ。ちょうど昼の時間である。今日はこのまま終わりで、下校の時間である。まわりを見ればもう過半数の生徒が下校し始めている。残っているのは勢花のような魂の抜け殻か、月旦のような余裕のある者か、このあと勉強会の予定を話し合う者たちくらいであった。
「無理」
 脱力してるわりにははっきりと言い切り、更に机にめり込むように垂れる。
 押しつぶされた胸がぐにぐにと蠢きながら形を変えるのを見て、月旦はフと自分の胸を見下ろす。視線は胸に邪魔されることなく、すとんと腿に注がれる。
「……無理」
 最後にしぼんだ風船から抜ける最後の空気のように漏れた勢花の言葉に、胸を押さえて月旦はムっと眉をしかめる。
「ふぅ」
 呼吸を整え、いまだムニムニと形を変える勢花の胸から目を逸らし、教科書を鞄にしまい、席を立つ。
「あれ? 委員長、帰り?」
 ヒョッコリと顔を上げた勢花がスッキリした顔で声を掛けてくると、意外に感じたのか月旦は「え?」と目を丸くすると立ち止まる。
「テストどうだった?」
「テ、テスト?」と月旦は一瞬言いよどみ、「そこそこかしら」
「いいな~」
 同じく教科書を手に、勢花は立ち上がる。
「明日なんだっけ、日本史とかあったよね」
「ええ」
 意図せずにふたりで廊下に出る。
「日本史か~。まあ何とかなるかあ。選択肢多い先生だし」
「ちょっと、なんで教科書をロッカーにしまうの?」
「え? だって荷物になるし」
「置き勉してるの? ちょっと戸田さん、テスト勉強してるの?」
「何とかなるでしょ、コピーしたノートもあるし」
「駄目よ! 明日またさっきみたいに項垂れるつもり?」
「あー、うー、委員長、でもさ」
「でももだってもありません!」
「あうっ」
 ぴしゃりと言い放ち、鞄を足下に置き仁王立ちに腕を組む月旦に、勢花は肩をすくめて涙目になる。その威圧感たるや、肝が冷えるような力強さがあった。
「鞄にしまって! ほら、ロッカーに……って……みんな置いてあるの!? ちょっと戸田さん、これはあまりにあんまりじゃないかしら」
「え、あ、まあ」
「日本史と……国語と漢文! ほら鞄に入れて!」
「え?」
「入れて」
「あっはい」
「良し。……じゃあね? しっかり予習しておくのよ?」
「あれ? 委員長はどこ行くの?」
 てっきり下駄箱に向かうのかと思っていた月旦が3棟への渡り廊下へ足を向けるのを見て、勢花はその背中に声を掛ける。月旦は足を止めずに「職員室」とだけ言いすたすたと去って行くのだが、途中いっかい踵を返してつかつかと勢花の前へとやってくる。
「戸田さん」
「は、はぃい?」
「あなた今日は部活に行かないの?」
「え?」
「あ、そうか、試験期間中は午後の部活動は禁止だったわね。御免なさい。それじゃ」
「え? あ、うん? うん」
 そして足早に去って行く月旦。
 去って行くかな? と思った月旦が、再び戻ってきた。
「いいんちょ?」
「忘れ物よ」
 月旦は自分のロッカーを開けると、数枚の書類が挟まれたクリアファイルを取り出す。幾つか朱の印が見えるのは、捺印した何かなのだろうか。
「それじゃあ、ほんとにまた明日ね」
「ねねねねねね、そ、それなあに?」
 興味を引かれた勢花は、チョイチョイと間合いを詰めて覗き込む。
 月旦も隠そうとはせずに、しかし見せようとはせずに、苦笑する。
「職員室に持っていく書類よ。部活動の申請。生徒会から昨日返ってきた書類。これをまた職員室の生活指導部に回して、またまた生徒会に戻すの」
「申請?」
「そ、申請。そう言えば戸田さん、生活指導の先生って誰だか知ってる?」
 品行方正な月旦は、コワモテで睨みを利かせる類の生活指導の先生とは縁も馴染みもなかった。ふと、剣道部の――剣道部であるとまだ思っている勢花に訪ねたのも、もしかしたら知ってるかもという期待を込めてのものだった。
「うん、知ってる。柳先生」
「柳先生?」
 と言うわけで、答えが返ってきたことで「へ~」と勢花の顔を覗き込む形になった。
「社会科だったかしら、柳先生」
「そそ、柔道部顧問。知ってる?」
「…………?」
 顔はおぼろげに思い出せる程度。
 月旦にとっては教科で受け持たれるわけではないし、なにより柳は三年生の担任である。彼女が受け持つ世界史の授業も選択で三年にならねば受けられないから、月旦の生来の無関心もあってその顔はやはり思い出すことができない。
「ほら、髪の毛が短い、こんな目をしてるゴツい先生」
「ん~?」
 ピンとこない月旦は、アレコレとジェスチャー交えて説明する勢花の腕をむんずと掴む。
「え?」
 その意外に力強い握力に、勢花は間抜けな声を出す。
「顔知ってる? 知ってるわよね。一緒に来て」
「え? え?」
 ずるずると引かれる。その力はやはり強い。
 つまづくように足を揃えて歩き出す勢花。物静かな委員長の意外な一面を立て続けに見て、なかば強引に肩を並べて歩き出すことを余儀なくされたわけだが、勢花も「まあいいか」と鞄を担ぎなおす。
「委員長、部活してたっけ?」
「してないわ」
「でもほら、部活の申請って」
「ああ、これ? これはね、新しい部活の申請書類よ」
「新しい部活? 委員長、なにか部活を作るの? この向陽で? へ~」
「この向陽でって、それはそうでしょう、わたしここの生徒だもの」
「いや、そうじゃなくって」
 向陽高校は、剣道部筆頭に格技系で名を馳せる学校であったし、どう考えても文系の委員長が新しい部活を……となれば、なんとなく難しいかもなぁと言うイメージがあった。その根拠は、公立という限られた予算から部活動費が下りにくいのではないかという点、バリバリの体育会系の柳が新設の窓口というのがまたいけない。文芸部あたりの新設だろうが、「そんなもの勝手に自宅で読めば宜しい。図書館もあるだろう」と一周される気配が満々である。
 そんな勝手なあくまでも勢花のイメージであった。
「いいでしょ部活。とにかく、自宅じゃ駄目なのよ。お父さんが反対しててさ」
「お父さんが? ほんとに?」
「ええ」
「どんなお父さんなの? 部活くらいいいんじゃないかなあ」
「でしょう? でもね、だめなの。今日も朝すこし遣り合っちゃってね。前からいろいろ言われてたんだけど、学校だったら邪魔されないし」
「委員長も大変なんだね」
「そうなのよ。部活の新設って面倒くさいのよね。ほんと。でも申請が通れば学校の施設の使用もできるし」
「ああ、それはあるかも。なかなかないものね」
 特に道場なんてその最たるものだろう。
 このときお互い同じものを頭に思い浮かべていたのだが、微妙に勢花との同期は取れていない模様である。
「委員長だったら大丈夫だよ、生活態度も真面目そのものだし」
「あらそう? じゃあ、柳先生に口添えしてもらおうかしら、ふふふ」
「別に良いよ? ……しかし委員長が部活かあ」
「貴女だって剣道部でしょう?」
「え? あ……」
「知ってるわよ。この一年、けっこう袴姿で竹刀担いでるとことか見てるし――と」
 話の途中だが、職員室の前に到達。月旦は失礼しますと一声掛けて引き戸を開ける。中には各教科の職員がひしめいており、いかにも期末テスト初日という様相を呈している。穴が空くように落ち着いた雰囲気の一画は、一~三年のうち初日の教科を終えた担当の席だろうか、テストの回答用紙を封じたオレンジ色の封筒が重ねられている。
「戸田さん、柳先生はいらっしゃるかしら」
「ん、どれどれ~?」
 と、二人揃って職員室を覗き込もうとして――。
「こら、試験期間中の生徒の職員室への立ち入りは禁止だぞ!」
 ハスキーな声でぴしゃりと言われ、勢花も月旦もはっとなって身構える。
「…………ん? どうしたお前たち、早く扉を閉めんか」
「委員長、あれあれ」
 勢花は月旦の袖をクイクイとしながら一喝した教師を指す。
「なるほど」
 月旦は頷き、真っ赤なジャージに身を包んだベリーショート屈強な女教師――柳をしっかりと認識し、職員室のドアをちゃんと閉める。
「こらお前らが残ったままでどうする! 外に出て閉めろという意味だ」
「ども、柳先生」
「戸田、なにをしに来た。テスト期間中は出入禁止だ。早く帰って勉強しろ。お前はとにかく頭が悪いからな」
「がびーん! 松下先生ですね!?」
「担任の松下さんが私に愚痴を漏らすくらいの頭を恨め。……で? 用事は何だ、まったく」
 つかつかと歩き寄り、しっかりと彼女たちと職員室の間に立ちはだかり、各教師の机が伺えないようにガードしつつ、柳は勢花の頭をグリグリと拳で押し苛みながら、諦めた様子で聞く。
「わ、わたしじゃなくって、いいんちょ、いいんちょがッ」
「ん?」
 と、そこで柳は脇で控える月旦に気が付いた。気配を消していたわけではないが、努めて目立たぬように控えて居た彼女に、改めて柳はその存在に気が付いたかのように体を向け直す。
「お前は?」
「柳先生、テスト期間中に申し訳ありません。これを提出に来ました」
「提出? …………ほう」
 クリアファイルから透けている部活動新設申請書を見ると、柳は「なるほどな」と受け取り、中の書類をパラパラとめくる。
「………………これは、本気か? 辻」
「はい」
 ほうら来たぞ、と勢花は思った。文系の部活動を認めないわけではないが、この学校ではやんわりと断られるのではないかという想像は今も持っている。
「しかし、そうか。お前が『辻』の」
「……はい。祖父が亡くなってから、自己流ですが」
 と、ここに来て勢花は首を傾げる。
 自己流? 祖父?
 好奇心に負けて、提出書類から委員長――辻月旦の名前を知った柳の手元を盗み見――ようとして、ぴしゃりとおでこを指で弾かれる。
「あうっ! 柳先生ひどいよ」
「お黙り」
 クリアファイルに書類を入れ直し、もろとも腕を腰に回して休めの姿勢で、柳は月旦をじっと見る。
「もう一度聞くわ。本気なの?」
「はい」
「……そうか」
 こくりと頷き、柳は次に勢花を見遣る。
「戸田」
「は、はい?」
「……お前も、『この部』に入るのか」
 その問いかけに、勢花は「?」と小首を傾げ、月旦もつられて小首を傾げる。
「そんな、戸田さんはもう剣道部に――」
 と、月旦が否定しようとしたそのとき。

「失礼します」

 職員室の扉が開かれた。
 やや小柄だがしっかりとした体つきの少女だった。
「あら、ドタ子じゃない」
「……毬谷さん」
 昨日、自分をクビにした剣道部副部長の姿に、勢花の体は鉛になったかのように重く固まる。その視線も伏せられ、口は食いしばるように真一文字に引き締まる。
 それを気にも留めずに、毬谷円佳は同じく書類をまとめたクリアファイルを柳へと差し出す。
「職員室は――」
「柳先生、これを出しに来ただけです。すぐに退出しますわ」
 柳はポカンと口を開け「お前らは全く」と溜息混じりにそれを受け取る。見るまでもなく、来年度の剣道部名簿である。「部長は東郷重美、副部長は――毬谷円佳。ふむ」
 そして何枚かめくりながら、確認する。
 ちらりと勢花を見る柳の視線に気付き、円佳はクスリと笑う。
「本当だったのか」
 柳の言葉に、勢花の体がビクリと跳ねる。
 いままで内に澱となっていた屈辱が、決して溶け得ぬ砂のように心の水面に巻き上がってくる。
「……なるほど」
 柳は剣道部員の名簿に戸田勢花の名前が消えているのを確認し、それを仕舞う。月旦が持ってきた書類と同じように後ろ手に、ひとつ頷く。
「名簿は試験明けでも良いんだぞ? こんなものはどうせ生徒会に右から左に流すだけなんだからな」
「決まったものは早めに渡したいですし」
 昨日、邪魔者――勢花をクビにしてから……いや、クビにすることを決めたときから作っていたのだろうそれを、学校側に提出することで確固たるものにしたかったのがありありと分かる態度だった。
 この場で勢花に会ったのは意外だったが、もはや彼女にとって文字通り眼中にないのだ。特に態度を取り繕うことは毛頭ないにしろ、肝が据わっているものだと、柳は顛末の何かを看破した。
 とにもかくにも、これが提出された以上、来期部長の東郷重美も知っているということだろう。
「わかった」
 そこまで考え、柳は首肯した。
「それでは」
 柳に一礼し踵を返す円佳。しかし、その途中でもういちど勢花の耳元で「じゃあね、ドタ子」と囁くことを忘れてはいない。
 そんな円佳の姿が消え、遣り取りを黙って聞いていた月旦の鋭い目つきが幾分和らぐ。
「お前らも、はやく帰れ」
 柳が落ち着いた声色で聡し、退出を促す。
 勢花の背中を押すようにして廊下へと出ると、柳は大きく息を吸い、静かに吐き出す。未だ沈痛の面持ちの勢花の心中を慮るや、さすがの柳も同情を禁じ得ない。勢花は自分から投げ出したわけではないのだ。
「戸田――」
 柳が勢花の肩に手を伸ばしたときだ。
「今のは剣道部の毬谷円佳さんでしたね」
 月旦は、静かに呟く。
「戸田さん、『ドタ子』って何? 何があったの?」
「何でもない」
 否定する勢花に、月旦の顔は険を増す。彼女に、ではない。彼女に何事かを囁いた毬谷円佳に対しての何かしらの気持ちが表れている。
 毬谷円佳の姿を探しても、すでに階下だろうか、見当たらない。
 月旦は柳に頭を下げる。
「では先生、よろしくお願いします」
 今の自分には何もできないと察し、月旦はいったん引き下がることを決めた。
 しかし、それを伺う柳は受け答えに交えてあるきっかけを投げ入れた。
「わかった。『剣術部』の申請、通しておこう」
 その言葉に、勢花の肩がピクリと震える。
「え?」
 柳はニヤリと笑う。
「ああ、剣術部だ」
 そのとき、微かに朝の光景が繋がる。
 あの思わせぶりに見せられた、刀の柄。
 勝手に文系の部活動と思っていた勢花は、改めて月旦に向き直る。
 視線を受けて彼女は頷く。
「興味、ある?」

   3

「部活動の構成人数について規制をかけている学校もあるけれど、向陽高校は義務と責任がついて回るだけで、人数規制がないのよ」
 下校。
 いつもよりやや重い鞄を手に勢花は、前を歩く月旦の後ろをトボトボとついていく。
 元気のない勢花の歩調に合わせている月旦は、聞かれてもいないことを説明しながら歩いている。
「ひとりでも部は作れるし、特に部員は必要ではないのだけれども、人数に応じて便宜が図られることはやっぱりあるのよ」
 やや歩調を落とした月旦が勢花と肩を並べ、その顔をじっと覗き込んだ。
 毬谷円佳と話して以来、このように気を落としたままだ。
「――お祖父ちゃんが、この町で道場を開いてたのが、もうずっと前で。その前から田舎で代々道場を開いていてね。全く有名ではなかったけれど、昔から受け継がれてきた古い流れを教えている道場だったの」
「剣道とは、違うの?」
 やっと、勢花は月旦の言葉に応える。
「もともとは同じだったのだけれど、いわゆる剣道が剣道として普及するそのもっと前から分かたれたみたい。気取るつもりはないけれど、いわゆる古武術なのよ。違うと言えば、ほんとうに全く違うわ」
「……?」
「歴史は私もよく分からないけれど、『剣術』は、剣道の扱う『竹刀術』とは全く違うわ。柔術が流れの果てに柔道として普及したように、剣術が剣道として普及する流れで失った物が残っていると言われてるわね」
 ジっと、勢花の意気の落ちたキョトンとした目を、月旦は静かな瞳で覗き込む。普段は話すことが全くなかったふたりだが、もともと人とあまり話さない月旦は構わず自分のペースで続ける。
「剣道と剣術、どっちが上か下かじゃないのだけれど、わたしは剣術部を作ってお祖父ちゃんが残した剣術をしっかりと修めたいと思ってるの。その違いを意識して、昔の人がやっていた動きを自分でもできるようになりたいだけ」
 そのとき、はっきりと勢花の目が揺れた。
「同じような動き……?」
「うん。小さい頃、お祖父ちゃんの剣を振る姿を見て、綺麗だって思ったの。いつも見てたわ。そして、自分でもやってみたい、綺麗な動きをしてみたいって思ったの」
 勢花の足がピタリと止まる。
 それに併せ、月旦も止まる。
「委員長、あのね」
「…………そこで話しましょうか」
 月旦は学校近くの小さい公園を指す。
 何か憑き物が取れかけた勢花は、月旦の促しに乗り、ベンチだけで遊具のない狭い公園に入る。
「座って」
 いつのまにか自動販売機で買ったペットボトルのお茶を渡しながら、月旦がベンチに腰掛ける。自分のとなりをポンポンと叩くと、勢花が腰掛けるのをじっと待つ。
 勢花はしばらく遊具が撤去されたあとをじっと眺めていたが、ゆっくりと彼女のとなりに腰を下ろす。
 子供が怪我をしたという理由で全国から『危険な遊具』の類が撤去されてしばらく、ついにはベンチだけとなった寂しい公園が増えたという。この小さな公園にも、砂場も、ブランコもあったのだろう。今はないそれらの痕跡を、月旦も勢花に倣って、じっと見つめている。
 お互いボトルのキャップも取らぬまま、しばらくそうしていると、ふと、勢花がフフフッと笑い出した。
「ごめんね、委員長」
「まさか笑い出すとは思わなかったわ」
「ほんと、おかしいったら……。は~……」
 息を整え、勢花は姿勢を正す。背筋の伸びた、綺麗な姿だ。
「中学校のときは、ずっと吹奏楽部だったの」
 そう語り出す勢花の話の腰を折らぬよう、「意外ね」とだけ返し、月旦は先を促す。
「高校は近いからここを選んだんだけど、部活はどこにしようかなんて考えてなかったの。吹奏楽部は面白かったけど、高校でやろうとは思ってなかったし、そもそも運動部が活発なウチの吹奏楽部は、もう応援演奏なんかで名を馳せる超スパルタでしょう? 入る気無くしちゃって」
 そこでまた、勢花は笑う。
 さすがに月旦も言葉を返す。
「確かにブラスバンドはスパルタだけど、剣道部はそれ以上に――」
「そうなの。でも、新入生歓迎会でさ」
 思い出すように、勢花は微笑む。
「剣道部の部活勧誘発表で、先輩――東郷先輩の形の演武を見て、ああ綺麗だなぁ……自分もあんな動きができたらなぁ……って思ったの」
「日本剣道形ね」
「だから、委員長がお祖父ちゃんの形を見て、綺麗だって思った、自分でもやってみたい、綺麗な動きをしてみたいって思ったって聞いたとき、自分と同じだって思ったの。だからなんだかおかしくなっちゃって」
 ――同じね、わたしたち。
 そう言って勢花は笑う。
「東郷先輩はずっと剣道やってる家で、お父さんもお母さんも、警察官らしいわ。そりゃあ、強いわよね。次は部長って決まっていて、夏の大会が最後で……」
「毬谷円佳さん。彼女も、剣道の家だったわね」
「知ってるの!?」
「ええ」と首肯するが、「知らないわけないじゃない」という呟きは口の中でもみ消す。
「この町で道場開いてたわけだし、そりゃあせまい業界だし、知ってるわ。彼女、順当に行けば副部長になるんじゃない?」
「…………うん」
「道場の一人娘だし、強いし、更に順当に行けば三年生になったら部長でしょうね」
「たぶんね」
 また、勢花はクスリと笑う。
「東郷先輩も、毬谷さんも、強いからね」
「そう」
 あまり興味が無さそうに頷くと、月旦はそろりと切り出すことにした。
「毬谷さんに、何か言われたの?」
「え?」
「元気がなくなったじゃない、職員室で会ってから。あのとき言われたことじゃなく、もっと前から、何か言われてたんじゃないかなって」
「うん。……うん」
 ペットボトルを握りしめ、勢花は手元に目を落としながら、二度、頷く。
「クビんなっちゃった」
「………………部活を?」
「うん。一年やったけど上手くならないし、見込みがないから、もう辞めちゃいなさいって」
「――酷いことを言うのね」
「だって、向陽高校剣道部だもん」
 向陽高校。
 その剣道部の名前の重さを知る者は多い。
「それに、二年生になったら防具も買わないといけないし。買ってからクビになるよりいいんじゃないかなって。すり足も上手くならないし、ほんと、みんなの足を引っ張ってしまう前にって。わたしを指導する暇があったら、先生も先輩も、他の見込みある人に教える方がいいし」
「それは、彼女に、毬谷さんに言われたのね」
 勢花の寂しそうな横顔に、月旦はじっと視線を落とす。彼女の揺れる瞳に、どことなく得心して頷くと、やや言い淀みながら続ける。
「……『ドタ子』って、なに?」
「聞かれると思った」
 苦笑混じりに立ち上がり勢花はベンチの前を、ペットボトルを竹刀に見立て、トタトタとすり足らしき歩法で行き交うように往復する。
「すり足がいつまで経っても上手くならなくて、どうしても踵が離れないの。『ベタ足ドタ子』。それがみんなから付けられた私のあだ名」
 両腕を広げてにっこり笑うその笑顔には、しっかりとした悔いが見えた。
「東郷先輩っていうお手本を間近で見ながらがんばってきたけど、どうしても駄目だった。初めの頃は他の先輩たちも教えてくれていたんだけど、しばらくしたらだれも教えてくれなくなっちゃって。部活も朝練も休み中の合宿もついていったのに、筋トレも自主練もがんばったんだけど。ほら、わたしって大雑把だから、みんなの言う通りドタドタするだけでさ。ち、力はついたんだけどね、へへへ」
 ガッツポーズで力こぶを作る勢花の腕は、確かにしっかりとしている。細い月旦の肢体よりも、肉付きは良い。
「朝走っていたのは?」
「あれは自主練。持久力付けないと、練習について行けなかったから」
「いつもうちの神社に?」
「う、うん。でも、委員長の家だって知らなかったよ。ほとんど毎日行ってたのに、会ったのは今日が初めてだったものね」
「そうね、ほんと偶然」
「あっ! そうか、あのときの刀って――」
「うん、道場に行って毎朝形稽古をしてるの。お祖父ちゃんの動きを頭に、いつかああなりたいと思って。そうか、わたしが剣を振ってるとき、戸田さんは走っていたのね」
「わたしも、東郷先輩みたいになりたかったな。ほんと、続けたかったけど」
 そして、お互いの間に沈黙が降りる。
 月旦は、何も言えなかった。
 言えるはずがなかった。
「…………っ」
 その開かれた双眸から、止め処なく溢れる涙で頬を濡らす少女を前に、月旦は声を掛けられなかった。
「頑張ったのに。駄目で……!」
 声を殺し泣く少女。
 まるで自分の胸を締め付けられるような悲しみを覚え、月旦も目頭が熱くなる。思うように行かない悲しさ、それを上回る……はるかに上回る悔しさ。
 彼女は、彼女たちはそれを知っていたのだ。
「戸田さん」
 月旦はペットボトルを置き、立ち上がると、頭ひとつ低い勢花の頭を己が胸にかき抱く。
「戸田さん。わたしは、あなたが欲しい」
「――!?」
 抱かれた勢花の体がびくんと震えるが、月旦はそれを逃がすまいとぐっと強く抱きしめる。
「ちょ、委員長!」
「逃げないで。話を聞いて」
「服汚れちゃうよ!」
「かまわない。今ここで抱きしめないことに比べたら些細なことよ」
「ちょ、いいんちょ……」
「あなたが欲しい。自分を信じて、自分が綺麗だと信じたものを追い求めて頑張れるあなたが欲しい。他の誰よりも、東郷重美よりも毬谷円佳よりも、戸田勢花という一人の女が欲しいッ」
 一瞬びくんと強く震えた勢花が、ゆっくりと抱きしめられたまま顔を上げる。その鼻水と涙にまみれた顔が、控え目な月旦の胸の間から彼女を見つめ返す。
「いいんちょ……」
「お願いがあるの、戸田さん」
「…………」
「わたしと一緒に、剣術部をやって欲しい。一緒に、美しいと思った動きを、術を、孤月を身に付けるための仲間になって欲しいの」
「なか、ま……?」
「ええ」
 そっと、かき抱いた胸を離す。
 息もふれあう距離で、月旦は頷き微笑む。
「一年間という長い時間、そこまで頑張れたあなたの努力をわたしは笑わない」
「なんで?」
「努力を笑うことは人間を否定することだから。結果が出ない努力を否定したり馬鹿にする人間は、他人の努力の結果で利益を得る人間だけよ」
 きょとんとする勢花がひとつはなをすすると、ポケットから出したハンカチでドロドロの顔を拭いてあげる月旦。
「いい? あなたの努力はしっかり体に残ってる。毎日走っていたこと、竹刀を振っていたこと、全部。――ほら」
 今度は勢花の手を取り、その掌を優しく撫でる。温かい掌が重ねられ、指が交わり、絡み合う。
「あっ……」
「気が付いた? ほら、戸田さんの手も、わたしの手も、ごつごつしているでしょう?」
 毎日しっかりと竹刀を振り、鍛えあげている者の掌にできる、何度も血豆となり、剥け、治癒し、硬くなった、タコのある皮膚の感触。
 勢花は、素直に驚いた。文系とばかり思っていた、すらりとしたこの柳葉のような委員長が、掌に剣タコを作るまでに鍛えていた剣士という事実に。
「結果なんてものに踊らされちゃ駄目。私たちが『これ』と信じて修めようとしてる、あの美しい何かは、そんな目先に来るような結果の過程にはないわ。もっと先にある、追い求め続ける何かであるべきよ」
「追い求める何か、じゃないの?」
「それを言えるほど、まだわたしは剣に生きていないから――」
「そっか。だから、部を?」
「ええ。家の道場だと、父の目もあるし。学校なら、自由にやれる」
「そっか」
 勢花は、まだ月旦には事情があるんだろうと察したが、飲み込んだ。
 組み合わせたままの掌をお互いの胸元に、ふたりはしばし見つめ合った。
「わたし、何も知らないよ? 委員長が言う、剣術とか知らないし」
「わたしも、知らないようなものよ。一緒に、研鑽していきましょう」
 勢花はしっかり頷いた。
「あれだけ熱烈なプロポーズされたら、女の子としては心動かされちゃうよ」
「え? プ、プロ…………」
 月旦は顔を赤らめる。プロポーズと言われて、先ほど心の赴くままに言った言葉を反芻し、さらに耳まで赤らめる。
「わたし、初めてなんだからね。優しくしてよ?」
 おどけて言う勢花。吹っ切るようなその言葉に、月旦は今になって恥ずかしさで身をよじる。しかししっかりと組まれた掌のせいで離れるに離れられない。
「あ、う、うん。そ、そうね……」
「じゃあ、こうしましょう」
 場の空気を勢花に戻された月旦は、名残惜しげに離された掌にやや涼しい初春の空気を感じつつも、彼女の瞳に吸い込まれるように呆ける。
 勢花はペットボトルのお茶のキャップを取り、そのお茶を一口、あおるように飲み込んだ。
「はい」
 と、勢花は口を付けたペットボトルを月旦に差し出す。
「え?」
 呆ける月旦。
「盃。固めの」
 そんな勢花の言葉に、やっと月旦の頭も動き始める。
「…………桜が咲く前で、すこし格好はつかないけど」
 ペットボトルを厳かに受け取りながら、押し戴くように、口を付け、一口あおる。
 ゆっくりと、静かに嚥下し、視線を彼女へと戻す。
「戸田さん、わたしは揺れたりしないわ」
「ふふ、これで仲間ね」
「でも、良かったの? お、お、思わず勧誘しちゃったけれど」
「委員長、それを今さら言う? ふふふ、だって、しょうがないよ、やってみようと思っちゃったんだもん。それに……」
 口を噤む。
 あの『綺麗な動き』を体得し、どこかの誰かを見返す機会が欲しかったのかもしれないという、自分の昏い気持ちと一瞬向き合う。
「うん。でも、嬉しかったもん」
「そ、そう……」
 安堵の表情に戻る月旦。
「だから、そうだなあ。……委員長、勢花でいいよ?」
「え?」
「名前。クラスメイトだし、名前でいいよ?」
「なな、名前……」
「うん。えーと委員長は~……っと」
 そこで、勢花は月旦の置きっ放しの鞄に目を留める。
 律儀な月旦は、しっかりと学校指定の鞄の名札に名前を書き入れていた。
「…………なんて読むの? げつ……『つきたん』? 『げったん』?」
「つ、『つきあ』! 『つきあ』よ!」
 ペットボトルを押し返しながら、慌てる月旦。
「つきあ? そう読むの? この漢字。月と、元旦って字で? アって読むの? これ」
「あ、アキラとか、タンとか……まあ、読むわね。アキラの、アで、ツキア、月旦って読むの」
「じゃあ、……タンちゃん?」
「そ、そのあだ名はやめて!」
 言下に否定した月旦は、眉を八の字に懇願する。
「しょ、小学校のときに、読めないからって、タン子って呼ばれてて」
「た、たんこぉ~? ふふふ、なんか似合わないね」
「だから、やめて!」
「でも可愛いよ? ねね、タン子ちゃんでいい?」
「だ、だめよっ」
「ん~……。じゃあ、私のことを名前で呼ぶなら名前で呼んであげる」
「委員長でもいいのに」
「味気ないでしょう? やっぱり、名前で呼び合わないと。仲間だし」
「ん、ん~……」
「ふふふ」
 そう笑いながらも、勢花は自分が『ドタ子』と言われてることと、彼女が『タン子』と言われていたことを、心に留めておこうと思った。
 彼女は、彼女のことを、決してそのあだ名で呼びあうことはないだろう。
「しょうがないわね。……せ、勢花さん」
「ムズムズするね」
「あなたが言えって言ったんじゃない!」
「冗談よ、月旦ちゃん」
「――ちゃ、ちゃん!? …………ま、まあ、いいかな」
 そっちから間合いに踏み込んできたのだから、今度はこっちが踏み込む番よ……とばかりに、勢花は照れ隠しの攻勢を見せる。
 今度は自分のハンカチではなをかみ、顔を拭き、はなをすすってお茶を飲む。
「ふぅ、落ち着いた。ゴメンね泣いちゃって」
「いいのよ。泣けもしないより、よっぽど健康的よ」
「じゃあ、制服汚しちゃったのもいいよね? 抱きしめてきたのそっちだし」
「………………」
 ドロドロになった自分の胸元に目を落とし、口を噤む月旦。
「ま、まあね」
 ハンカチで拭きながら、月旦は苦笑する。
「ともあれ、これから宜しく、勢花さん」
「うん、月旦ちゃん」
 どちらからともなく差し出された手を取りながら、彼女たちは微笑む。
 昼間近のスズメが、チュンとひとつ、鳴いた。

本編へつづく

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